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確かかなと思った言葉を気ままに。

牙狼『VERSUS ROAD(VR)』10話の感想続き~アザミの罪深き所業、親を奪う行為は何ゆえ外道とみなされるか

「お父さん!」

 

少年の破裂する叫び。

ああした光景は何度見ても嫌なものだ、慣れない。

 

牙狼『VERSUS ROAD(VR)』10話の『ENCOUNT』で、伽堂アザミはやってはいけないことをやった。

人の親を殺す・・・。

きっと初めてではないだろう。生まれてから今まで、何人殺めてきたのか。中には、死んでやむなしの人間もいたかもしれないが、今回は違う。

 

外形上は同じ殺人行為であっても、貴賤の区別はなされるべき、というのが持論です。どんな理由だろうと罪は罪、なんて考え方は嫌い。そんな単純なジャッジメントは、幼稚なマスメディアや厳粛な司法にでも任せておけばいい。

家族の復讐のためならあり、欲望を満たしたいだけならなし、といったように、結末に至る理由や歴史を重視して行為の「価値」を判断したい。

 

結論から言えば、アザミは外道。

 

親を奪う。特に、幼い子どもから奪う場合がなぜに悪徳性が強いかといえば、それをしてしまうことで「子どもの運命を決めてしまう可能性が非常に高いから」です。

幼少期の衝撃的な体験は単なるトラウマを超え、宿命となり得ます。アザミは五五の息子に悲痛な宿命を背負わせた点で、殺人以上の悪辣をしでかしたと思う。

 

「宿命」

似た言葉に「因縁」や「運命」がありますが、これら三つの言葉の意味は、似ているようで異なるものです。

 

「因縁」とは、ある時代・社会において自分の祖である家族が選択した、いや、多くの場合において選ばざるを得なかった生き方の末路を意味します。

 

次に「宿命」とは、その因縁に対する子孫としての理解と言い切って差し支えない。

 

そして「運命」とは、因縁に対しての理解である宿命を、己の身体の欠くことのできぬ一部と捉えたのち、一生をかけ、その宿命をこの世の誰に対しても恥ずべきことなく主張できる普遍の原理にまで高めてやろう、という心意気のことを指す。

 

VRの場合、父親の無残な姿に「因縁」を感じ取った少年は、やがて、この現実を「宿命」と捉えて行動するようになり、結果、己の「運命」が決定付けられる・・・。

独自の用語法を使った考察で恐縮ですが、10話のあの場面から想像したのは、本編では決して描かれることがないだろう、一人の人間の悲劇でした。

 

そう考えると、葉霧が空遠に言ったセリフ、

「誰もお前の痛みに気付いていない」(※表現はアレンジしてます)

この言葉が、あの少年に向けられたレクイエムのようにも聞こえてくる。

 

・・・葉霧宵刹。

前回の感想では、「嫌いじゃないけど、憧れない大人」だなんて決めつけたけど、結構視野の広い、感受性の強いタイプなのかもしれない。それゆえ、責任感からすべてを背負い、すべてを変えてやるため破壊行為へと突き進む・・・とも評せるのではないか。

それはそれで嫌いじゃないし、あのセリフが、実は少年をも意識したものだったとしたら、憧れる。

どこをどう切り取るかで、評価とはこうも変わるものか。

   

 

人の心理は難しい。その難問が、考えれば考えるほど余計に「難しい難問」となり、頭痛がしてくる。けれど興味深いから、考えるのをやめることはできない。こりゃあ、「頭痛が痛く」もなりますよ。

 

いずれにせよ、葉霧もアザミも「最後に救われる」なんて結末にはならないと思う。葉霧は境遇、アザミは出生でそれぞれ同情すべき点はあれど、なにせ、人を死なせすぎた。

例えばベジータのように、最後に改心して良い行いをしても、積み重ねた悪徳をすべてチャラにはできないのです。

 

さて、現状はどんどん邪気に飲み込まれている感じの牙狼の鎧。

このまま堕ちるか、それとも陰我を断ち切るか。

 

VRで鎧の召還シーンは一度もない。物足りないとは思わないけど、やっぱり、ダイナミックな鎧の格闘は観てみたい。

 

最終話に向け、熱心な視聴者の準備は整っているはずだ。

 

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