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【ひねくれ者でも余韻に浸れる】映画『リービング・ラスベガス』 アル中の思い、娼婦の願い

※例えば、「自粛など糞くらえ」と公言し、家族や友人から煙たがられている、そんなひねくれ者でも、観終わったらきっと余韻に浸れるだろう映画をセレクト。感想を寄せてみました。気の向くまま、順次アップしていく予定です。

最初は・・・。

 

リービング・ラスベガス

 

目次

 

あらすじ

Amazonの商品内容紹介からの抜粋)

アルコール依存症で仕事を失い、妻子にも逃げられた脚本家のベンは、死ぬまで酒を飲み続けようとラスベガスにやって来る。そこで知り合い、互いに惹かれ合った娼婦サラと、ベンは一緒に暮らし始めるが・・・。

 

退廃的な恋愛

見ず知らずだった男女が、互いに似たものを感じ取り、惹かれ合う。それぞれの状況が堕ちていればいるほど、その出会いは廃墟に差し込む光にも見え、理性と本能が同時にその光を掴もうとする――。

この作品は最初から最後まで、死の陰に男女の甘酸っぱさが香る空気感をまとっています。

 

「恋愛」に抱くイメージを肯定的に表わせば、「希望」とか「ときめき」だとかになるでしょうか。

 

そうした雰囲気は、リービング・ラスベガスにも確かに感じる。けれど、この男女の希望やときめきはやがて終わる・・・終わるのが前提なのだと冷徹に突き付けつつ、物語は進行します。

 

アル中(ベン)と娼婦(サラ)の関係など、「そうなってしかるべし」と、突き放すのは簡単です。ご高潔な世間様からすれば、落伍者同士のお付き合いがハッピーエンドになるはずがない。

さらに「そんなの最初から分かっていたでしょ」と、したり顔で念押しすらしてくる輩だってきっといる。

こうした世間の声は大抵、相手が背負ってきた感情の重みを察することができていません。

 

落伍者が、堕ちる過程でどれほどの辛苦を味わってきたか。

 

時に受け入れ、時には抗う。その作業を繰り返す徒労が、降りかかる辛さを一段と厄介な代物に仕立てていく。

堕ちた原因が自分にあったとしても、堕ちる苦しさがいつまでも終わらない境遇なんて、堕ちる前から誰が想像できるでしょうか。

平均的な世間には、そこが分からない。

 

そして、それが分かっている男女は、だからこそ惹かれ合ってしまう。

 

自分たちだけに通じる特別な感情が、アル中と娼婦の退廃的な関係を特別な次元へと高めてくれる。こうした作品の設定は、非常に納得がいくものでした。

 

自分の記憶では、サラのほうがより2人の関係を特別視してたような印象を持っています。これには、男女の心の働き方の違いが関わっているかなと想像してる。

 

男の場合はどうしても、文明社会でのステータスをモチベーションに行動が動機づけられていきます。

男が恋愛に没頭したとして、じゃあ、他のステータスを押しのけ、順位で恋愛が一番になったかといえば、少し違う。身の回りの既にある様々な関係性と比較し、相対的に今は恋愛に重きを置いている、といった説明のほうが正確に近いでしょうか。

一方、女性の場合。

物事を相対的に捉える思考のメカニズムは共通でしょうが、女性はその相対性の中にも「絶対」を見つけ出そうとする作用が男より強いように感じます。

相対性という抽象性を胸の内でいつまでも放っておかず、ある時点で「これはこう」「あれはこっち」などと、結論をすぱっと下すのです。

 

過去の恋愛を長く引きずるのが男で、割り切りがいいのが女とよく言われるのは、こうした男女の認識の違いが関わってるんじゃないかな。

 

だからサラは、ベンとの関係性を相対的な価値にとどまらず、絶対的な価値として捉えていた可能性はあると思います。

 

その辺が、2人の唯一のすれ違いだったのかもしれない。 

 

男ゆえ、女ゆえの顛末

ベンはもう死ぬ気だったのだから、サラの存在を絶対視するのは難しい。時間があれば、徐々にそうなったかもだけど、ベンに時間を延ばす意思はなかった。

 

女性からすれば、「どうして」と疑問をぶつけたくもなると思います。これも、男の一種の習性と呼べるでしょうか。

 

私見中の私見になりますが、男には、過去の過ちを認めつつもあえて正すことなく、過去に殉じて生涯を閉じようとする欲求があります。

 

社会の相関の中で、なるべく高位置にとどまれるよう注意しながら、自分を相対的に規定していく男たちは、その作業に不備が生じると頭を抱える。そして、もはや修正のしようもないなと悟った時、人生を振り返ってみて、納得の気持ちが強ければ死を、弱かったら改めてまた生きる選択をする。

 

多くのケースでは納得の気持ちが弱いから、生きる道を選ぶでしょう。

 

ベンについては、華やかな脚本家だった人生にそれなりに満足していたのか。

もうちょっと深読みすれば、脚本家としての文学的直感から「これ以上長く生きたって満足なんぞ得られるはずがない」と看破し、死を選んだのかもしれない。

 

いずれにせよ、一緒にいる女性から見たら身勝手な決断。だけど、身勝手と分かって、ベンを支持する自分がいる・・・。

 

これは、ベンの気持ちの弁明です。

例えば、終わりが見えているから気持ちが奮い立つってこと、ありませんか。

死を決意したまっさらな状態だからこそ、大勢の娼婦のうちの一人に過ぎなかったサラの美しさにベンは気付き、最後にその美しさをサラ自身にも気付かせるため付き合うことにした。

だとしたらその行為は、物語をつくる仕事に長く関わってきたベンの、命を懸けた壮大な脚本でもあった――と、みてやることって、できませんかね。

 

気になるのはベンの死後、サラがどうなったか。

 

ベン(僕)の思惑通りなら、変わらず娼婦を続けていても、しばらくは違った風景が見えているはず。けど、永遠じゃないのは間違いないから、サラもいずれ、ベンと同じ結論に偏る可能性は否定できない。

さっき言った男女の違いを考えたら、そうはならないとも思えますが。

 

日陰にたたずむ男女の形を通じ、ほんのわずかなタイミングや運の差が、行く末を左右しているのだとよく知れる。

ひと一人の人生が別の人生に影響されたり、影響したりしながら進んでいく。その描き方が控え目で好きだ。

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