lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

新型コロナ? やはり恐れるに足らず

アルファやデルタ知らんが、オミクロンはやはり大したことない。

喉の炎症、痛みはかなり軽快した。

 

おそらく自宅療養の名の下に、喉の炎症を長く放置することが、世間がコロナ後遺症と呼んでいるものの要因と思っているので、炎症物質の発生を抑えるトラネキサム酸の薬と、粘膜の回復を促すアズレン系のうがい薬を調達、まめに摂取した効果が出たと勝手に自画自賛しておく。

 

鎮痛剤(イブプロフェン)だけの摂取で、あとは放っておいても同じように症状は改善したのかもしれないが、あれだけの炎症に何も対処せず、痛みを誤魔化すだけの処置でいいとは考えなかった。

鎮痛剤で痛みは一時和らいでも、炎症物質は発生し続けている。しかも脳に近いところでの症状だと考えれば、炎症そのものを鎮める措置は必要だろう。

 

とまあ、これが実際にコロナに罹って得た自分の見解であるが、いずれにせよ、激しいのどの痛み以外、今のコロナは大したことない。

よほど体の弱い人でない限り、この病気で死ぬとは考えられない。

恐れるに足らずだ。

 

それなのに、「コロナが怖い、怖い」とのたうち回っている世間の連中は何だろう。

確かに喉の痛みは激烈だが、耐えられるし、乗り越えられる。

結局は、「コロナとは個人の人生観が試される問題だなあ」、というのが確信である。

 

甘いものだけ食べてきて、人生の苦味や渋味を知らない方々にとっては、コロナの痛みとは、わが身に突如として降りかかった、とても信じられない大不幸なのだろう。

そういった類の人間ほど、医者の自宅放置の措置を素直に聞き入れ、ろくな対症療法を自分で考えもせず、ただ時間だけを過ごし、後遺症にもなる。

 

今は亡き自分の大叔父は、終戦後、満州からソ連に連行され、シベリアに抑留されたシベリア帰還兵である。

帰国したときは、ほぼ廃人状態で身体機能が完全に戻ることはなかった。

子どもの頃、片脚を引きずり歩いていた大きな背中をよく憶えている。

シベリア抑留の辛苦に比べたら――。

コロナ? 鼻で笑うしかないじゃない。

 

こんな程度のことでへこたれていたら、大叔父に笑われる、軽蔑される、あの世で二度殺されもするだろう。

これが自分の人生観。

コロナ怖い病のジャップどもとの大きな違いだ。

コロナに罹って確信、やはり5類に下げるべき

「今のコロナ(オミクロン)は普通の風邪」

「いや全く違う」

こうした意見の相違が、専門家や巷の一部でみられる理由は、実際に感染し発症すればよく分かる。

 

症状の一つが、喉の痛み。

 

字面だけでみれば、「喉の痛みか、喉仏当たりが腫れて、酷い咳が出るやつね」と恐らく自分自身の風邪の経験から想像するだろう。

ただ、このコロナの場合は、喉は喉でも、部位が異なる。

 

喉仏よりずっと上、扁桃腺や喉ちんこ位の高さから上咽頭までの間が痛くなるのだ。

だから普通の風邪のような咳は出ない。

しかし、粘膜がただれ、火で焼かれたような痛みが生じる。

特に、唾や食べ物・飲み物を飲み込んだ時の痛みが過酷だ。

痛みの経験値が少ない人は、それだけでパニックになる可能性もある。

 

これで分かる。

コロナに罹った人たちが「普通の風邪じゃない、舐めない方がいい」と言うのも最もだろう。

あの喉の炎症、痛みは、国内でいわゆる「普通の風邪」とされてきたものには、なかった症状であるはずだ。

 

それでも、医学的には肺炎などに発展する可能性が低い、軽症に分類された咽頭痛にほかならない。

この医学的な定義と、罹患者個々人の体感とのギャップが、今回コロナへの対応を面倒にしているものと思う。

 

咽頭のただれによる痛みは苛烈であり、その経験者が善意でもって感染拡大防止を訴える心情はよく分かる。

ただ、人によって症状の差はあるだろうが、自分の場合は、喉の痛み以外に発熱、倦怠感など目立った不調はない。

発熱は、喉が痛み出した時に少しあったくらいだ。

全体的な評価でいえば、高熱に侵され、ろくに立ち上がるのも困難なインフルエンザよりはましに思える。

今回コロナでは、とくかく喉だけがしきりに痛く、ほかは健康というのもおかしいが、喉の痛みさえどうにかなれば、大した病気ではないな、というのが正直な感想だ。

 

だとしたら対処は簡単に思える。

喉の炎症を鎮める対症療法を行えばいいだけだ。

喉ちんこより上の部分は、通常のうがい薬では洗浄が難しい、届かせたくても届かないところ。

だからこそ、オミクロンの感染力は強いのだろうと、素人ながらに察した。

ウイルスに脳はないはずなのに、賢い。ついそんな感想も抱いてしまった。

 

発熱や倦怠感なども結局は、喉の痛みから来るものではないのか。

あれだけ痛ければ、細胞は熱を発するし、別の不調を呼び起こすだろう。

だから一刻も早く、喉の炎症に対する措置が必要だと思うのだが、現実には、コロナ陽性と分かった時点で、自宅療養が始まり、それ以上の診察は受けられず、自力の完治を待つしかない。

解熱・鎮痛剤(イブプロフェン)などは最低限処方されるが、痛みを誤魔化しているにすぎず、炎症そのものを改善する措置が何らとられないままの自宅放置である。

 

「こんな痛みが数日間も続いているのに、何の対処も無けりゃ、そりゃあ心身に後遺症が出てもおかしくないよな」

そう確信した。

 

だったらとっとと5類に下げて、通常の医療を自由に受けられるようにした方が、余程幸せな人が増えるだろう。

それが分からない政府、医者連中とは何ぞや。

反対する奴らは、あんな痛みを伴う症状を5類に下げるとは何事か、とでも言うのか。

違う。

痛みさえ対処すればどうにかなるのだから、過度な感染対策ではなく、対処療法にシフトできる5類に下げるべきなのだ。

 

病気の分類も、人が後付けで処理したものに過ぎない。

結局、人とは「言葉に支配される存在」であると、改めて納得した次第だ。

無念、ついにコロナに罹る

この2年半ほど堪えてきたが、とうとうコロナ陽性(症状あり)になってしまった。

とにかく、喉がイ(痛)ってー。

熱はなく、際立った症状はこれだけ。

上咽喉のあたりか。鼻の穴のすぐ裏側あたりが酷い炎症のようだ。

普通のうがいじゃ、まず届かないところ。

日常、うがい手洗いに気を付けてても、防げないのも分かる。

鼻うがいまでが、実はマストだったか。

とにかく、これまでの風邪でこんなところが痛くなった経験はない気がする。

コロナも自分が生き残る道をよく探している。

こうした症状が、今回のコロナが普通の風邪とは違う理由の一つとされるのだろう。

痛みへの恐怖心が強い人には、確かに辛いでしょう。

何事も経験。

この先は分からんが、現状、全体的な症状でいえば、インフルエンザのほうが辛いな、個人の感想。

それでも、喉の痛みはかなり強烈なため、気休めにのど飴は常備しておきたい。

 

逆の宝くじ

もはやPCR検査は、逆の宝くじ。

引けば、ほぼ必ず当たる。

そんな仕組みをいまだ、危機管理の基礎にしているなんて。

検査料で儲ける事業者がどれだけいるか。

その費用は当然、税金。

日本人のおつむは本当に弱かったのだ。

とっくに分かっていた。

同じことをずっと言っていて、その確信に揺らぎがないどころか、当たり前がすぎて、自分の陰毛の一部になってる。

 

憎らしくも応援する

自分にとっては苦々しく、小憎たらしい若者でも、新しい何かに挑戦しようという彼の心意気は、自然と素直に応援できてしまう。

綺麗ごとではなく、本当にそう感じるのだから、自分でも不思議だ。

二十代でそんなことがあったか。

これが年を取ったということか。

単なる情緒不安定か。

いずれにせよ、新しい職場での彼の大成を思っておく。

無意識の宗教観

四十手前になり、無理やりにでも自分自身について振り返ってみると、意外と宗教色の強い人間かもしれない、と思い至るようになった。

 

うちの両親や親戚は、天理教を信仰している(していた)。

括弧書きで、していた、と表記するのは、父親がもう天理教なんぞやめた、と豪語しているからだ。

気持ちは分かる。

長年、信者の端くれであったにもかかわらず、立て続けに意にそぐわぬことが身の回りで起こり、これ以上に信仰する気が失せたのだろう。

親父は天理教と信仰の意味を誤解している、というのが子どもの眼から見た率直な批評だが、まあ気持ちは分かる。

 

宗教の種類にかかわらず、信じる者は救われる、そうであるはず、といった刷り込みは世間の、いや世界の定番なのだ。

 

自分を天理教の信者とは思っていない。

 

少年時代、天理教の行事ごとの手伝いなどに駆り出されはしたが、それは深い信仰心からではなく、親の命令や、親戚の頼み事であったからに過ぎない。

それでも、身近に宗教の色合いがあったのは確かであり、その意味で、平均的な日本人より宗教的感覚の醸成は強いといえそうだ。

 

ここで言う、自分なりの宗教的感覚とは「自分の存在意義を上回る絶対の価値がこの世にはある、ありそうだ」という予感を指す。

天理教風にいえば、親神様、親様といった人知を超える存在、あるいは人知を超えた存在に見出された者への思慕や崇拝。

自分の場合は、この世にあるかもしれない絶対的価値を「神」といった具現化した存在に投影することがどうしてもできず、内面の倫理観や正義感といった形に落ち着いたように思う。

 

誰しもが、それなりの倫理や正義は持ち合わせいるだろうが、自分を犠牲にしてでも、その倫理・正義を貫かねばならぬ、とまで思い詰めるケースはどれだけあるだろう。

本当に試したことはないかもだが、自分にはその気がありそうだ。

 

だから、他人から見たら、自分の言動には、いささか過剰だったり、偏重気味だったりする理合いが含まれているだろう。

酒場で披露したら、友人には結構楽しまれる一方、プライベートの付き合いの深くない、職場の同僚、上司などには奇異に映るのも道理だ。

 

この可能性に思い至ったのはつい最近。

実は、己の存在理由の根本を決定的にした出来事は全く別にあるのだが、その当時の出来事をここまで真剣に内面に張り付かせた動力については、あまり考えてこなかった。

自分は元々そういう人間。そんな幼稚な決めつけしか持っていなかったのだ。

 

しかし、幼少期から知らず知らず、宗教色の強い環境に浸っていた事実を客観的にみれば、神の存在は肯定できぬとしても、「絶対の何かはありそうだ」という感覚だけは心体に深く根付き、その発現の機会をうかがっていた、と今になって考えなくもない。

だからなのか。

宗教的感覚(自分の存在意義を上回る絶対の価値がこの世にはある、ありそうだ、という予感)の薄い平均的なジャップに、嫌悪をもよおすのは。

馬鹿に付ける薬が、ない

ワクチンより、馬鹿に付ける薬を、できるならとっととつくってほしい。

 

昔、日本に医学生として留学していた魯迅は、日本人に辱められる中国人の同胞を一緒になって笑う同胞をみて、こいつらの精神を治すには医学では駄目だ、文学しかない、と思い、文学の道を歩んだ、とかどうとか。

粋な時代。

文学こそ、馬鹿に付ける薬だったのだ。

 

そんな気風も遥か彼方。

 

科学技術の強みは、その不可逆性にある。

一度開発された知識が失われることはない。

例えば核、今回のワクチン。

どんなに危うさを秘めたものであっても、ひとたび公になった知識が白紙になることはなく、人類はその知識を基に、新たな知識をつくろうとする。

 

一方、文学、あるいは哲学や思想。

 

こちらは科学と違い、簡単に逆戻りする。

その考え方は、ソクラテスオルテガ福沢諭吉らによってとうに認識され、克服されているにも関わらず、アンデッドのように何度も蘇るのだ。

「文明開化は有形のものより、無形のものがずっと難しい」(福沢)とはよく言ったものだ。

まさにその通り。本当に卓越した知識人であったろう。

 

科学技術は、それを生かした製品・仕組みが世間に行き渡ることで、一般大衆目線においても不可逆性を獲得する。

しかし、思想の濃度は人によってあまりに違い過ぎるから、こっちが頑張って濃くしても、大多数の薄い方へと色が流れていってしまう。

薄さを求めるのが本性なのかもしれない。

 

福沢諭吉も、近いうちに一万円札の肖像から消える。

このインパクトは、個人的に安倍元総理の死亡よりずっと大きい

いよいよ、馬鹿に付ける薬の元すら消えようとしている。