lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

苛々が止まらーん

いつもそうなのだが、今日は特に、苛々がつのる一日になってしまった。

仕事をしない管理職。

時短勤務を「さぼりの公認」と勘違いしているあの人。

責任感のない同僚。

そして、中途採用でいいように使われ、安いままの我が月給。

どうして人ってこう、自分だけが可愛いのでしょ。

私はどうしていつも金がないのでしょ。

身から出た錆とはいえ、惨めだ、屈辱だ。

長男なのに、兄弟の中で一番、金稼ぎの才覚がないときた。

最近良かったものといえば、まあこれくらい。

ヘアスタイリングにも使えるトリートメント。

ウエットな髪型になります。

色気付く癖だけは変わらないおっさん。

安倍元総理の死亡と、西部一派の終焉

銃撃による安倍元総理大臣の死亡は、この記事のタイトルどおりの印象を自分に与えた。

安倍元総理は、確かに、評論家だった故・西部邁の薫陶を受けた一人だった。

 

青年期の初期、西部氏の思想によって助けられた感触のある自分にとって、西部氏の多摩川での自殺は、その後の人生の歩み方に影響をもたらしている。

10年近く務めた会社を辞めるという、ちっぽけな決断をした理由の一つに過ぎないのだが、あの自殺がなかったら、別の考えに寄ったかもしれない。

あのときは、とにかく、社会的に自分を抹殺したい衝動があったのだ。

それだけ、勝手に恩人とも思っていた西部氏。

 

必然的に、当時その周囲にいた人たちにも、少なからず関心はある。

安倍氏もその一人だ。

第一次安倍政権の瓦解後、西部氏はちょっとした応援を安倍氏にしていた。

西部氏自身もそのことを隠していない。

晩年には、安倍氏の政治姿勢に批判的な言論が目立ち、親の心が完全に子に伝わった訳ではないかに見えたが、そのことを納得がいかずとも、「政治家で居続けるための限界」と承知もしていたようだ。

 

自分は、安倍氏の殺害を「西部的思想の血脈において特に重要だったかもしれない枝線が切れた」、と言い換えて捉えている。

 

西部氏の薫陶を受けた方々は結構いるだろうが、あれだけ大きな存在感、影響力を放ったのは、当然ながら、元総理だけだ。

比較的名の知れた言論人でいえば、小林よしのり水島総、中野剛志、佐藤健志藤井聡・・・思い付くのは、このくらい。

ただ、駄目だ。彼らのことは嫌いじゃないが、残念な気分をどうしても拭えない。

 

ある出来事に対して、西部邁だったらそんな風には考えない、こんな感じで応える、あんな批評にはならない、といった、「お前こそ誰だよ」的な訳知り顔の気分が、彼らをみていると生じてくる。

 

藤井聡は公の場で頑張ってはいるが、肝心な自分の本心を見失っているようだ。

中野と佐藤は、無意識にも巨匠を意識するあまりか、口は達者だが実践に欠け、偏差値が高いニートにみえる。

水島は筋肉に力が入り過ぎではないか。脱力による打撃を覚えてほしい。

最もランクが高いのは、小林よしのり。それだけに、西部邁の知がどれほど別格だったかを、嫌になるくらい思い知る。

技術的に小林よしのりに足りないのは、流暢なスピーチ力だろうか。西部の喋りはまるで音楽だったから。

 

現状、西部氏の系譜にのる言論人はいるものの、同等になれた者はいない。

仕方のないことだが、それぞれが亜流・我流の道に舵を切り、それがかえって、思考のレベルアップを妨げている感じだ。

そう考えると、西部一派の「人」は残っていても、思想の内形についてはとうに終焉している。

 

そこへ、中身はどうあれ、行動力では随一に決まっている元総理という肩書の一人が逝ってしまったことで、外形的にも西部一派は終わった、と感じられたのだ。

自分自身、西部邁の影響を受けているなどと、思ったり、言ったり、書いたりすることに、いい加減、気恥ずかしさを覚えている。

分かっている。

西部邁が二度死んだ感覚。

「影響を受けている」ままでは駄目なのだ。

 

こんな意味が今回の事件にはあった。

日本大麻党から考える、オーソドックスな政治的信条を誇示するのが難しくなった世の中

投票に行ったことはないが、近年の選挙で戦う各政党の主張は、個別具体化の色合いが、かなり先鋭化する感じになってきた。

ワクチン反対は一つの例。

確かに、ワクチンを盲信して疑わない民衆には僻僻するのをとうに超え、殺意や、テロリズムの衝動すら覚えるが、そこを足掛かりに立候補しようとは、個人的には考えない。

仮に、反ワクをきっかけとするにしても、いや、そうするのであれば、なおさら、この3年にも及ぶマスクマンどもの性根を徹底的に考察し、長い歴史の中で、今の世間がどういう程度の偏差値にあるのかを自分なりにまず規定する。

そして、その糞溜めから抜け出す、あるいは糞溜めごと葬り去ってみせる思想なり、精神論なりを整え、そこへの確信を持って、自分の意思を固め、仲間を探し、一定の数が集まれば、この私の思想・精神論は「政治的信条である」とようやく格好つけて話すようになるだろう。

今の政党はあまりに場当たり的、歴史観がなさすぎる。

歴史観というと、「のろまなコンサバでは超スピードの時代に付いていけない」と馬鹿にされそうだが、違うのだ。

歴史観とは、昔を尊ぶ懐古厨のことではなく、「過去にあんな経験をした俺が、この程度で臆すはずがない、臆すわけにはいかない、そうなるくらいなら死んだ方がまし」という戦いの心構えをいう。

こうした歴史観を失った(そもそも興味がない)民衆は、ちょっとでも生き永らえそうな勢力に恥ずかしげもなく寄り付く。

あるいは、腹の底の不満や憤りを一瞬でも和らげてくれるキワモノを、安全地帯から煽り倒す。

それが、今回の参院選

かなり前から既にそうなのだが、愚か者はまったく気付かず、賢い者はとうに知っているから飽きており、ときに有名人のように自殺する。

日本大麻党よ、禿げた党首よ、「歴史観」を持て。

今朝の読売新聞、おたくの政治広告の下に、毛生え薬か何かの広告がセットで出ていたぞ。

さすがに意図的のはずはないだろうが、結果として、芸人扱いだ。

もし、日本大麻党に「歴史観」があったなら、党首自ら、街頭演説の中で実際に大麻をヤッてみせ、警察に捕まる。

その単なる事件を象徴的な事変にすり替え、あらかじめ用意しておいた別の候補者を世に放っていたな。

なんちゃって。

日本大麻党にみる、政治的主張の時と場合の難しさ

NHK党は、党首自身のNHKに対する私怨、怨念が行動力の源泉になっている。

良いか悪いか、好きか嫌いかは別にして、最終目的が「NHKをぶっ壊す」という個別具体的なものであるため、そこへ至るまでの過程を周囲は想像し、挫折するかもという結末まで込みで、政治のストーリーに触れられる。

かなりやんちゃな、政党という看板がなければどうなんだ、といった彼らに親近感を覚える人がいたら、理由のいったんはそこだろう。

実際、議席を持つ政党にもなった。

しかし、日本大麻党の場合、最終目的が仮に、大麻合法化、だとしても、そこにNHK党のような情念にまみれた物語の発生は想像し難い。

例えば、警察を攻撃するのは無理がある。

警察はNHKのように受信料でほくほくとしている組織ではなく、法にのっとって動く執行官に過ぎないからだ。

NHKの受信料は誰もが支払った経験があるものであり、その不信感、がめつさに対するにも似た悪感情を抱く人は少なくない。

「金を払っても、力を入れて放送するのは年寄り向けの朝ドラ」

「ニュース番組にすら恣意性を感じる」

「災害報道は速いが、そこ以外の存在価値が見当たらない」

「給料高くない?」

・・・。

ゆえにNHK党の存在は、NHK既得権益の巨悪とみれば、その巨悪を打つ些細でリアルな必要悪ともいえる。

日本大麻党はそれになれない。

大麻は、受信料支払書のように誰もが容易に手に持てる代物ではないから、NHKに対するような悪感情を味方にしづらい。

つまり、大麻が合法でないことの不便、恨み、怒りを一般にどう巻き起こすのか。

真っ先に肝心な点なのだが、深く考えられているようには思えない。

日本大麻党に足らないもの

参院選の最中、日本大麻党なるものの駅前演説に通りかかった。

大麻を合法化せよ、原発の早期再稼働を――。

通りすがりの10秒程度で、こんな趣旨の話を聞き取ったかと思う。

結論的に反対はしない。個人の見解としては、全然うなずけるものだ。

ただ、個人の信条では確かなのものが、政治の理合いにまで適しているかは別。

少なくとも、街頭演説の印象から計る限り、大麻党は具体的な情念が弱い。

情念の乏しい言論は、人の心理に入り込み、巻き込むことができない。

たとえば、N国党のように。

・・・続きは次回。

やばい薬に、とうとう手を染める

耐え切れず、ついに買ってしまった。

鮮やかなイエロー、なぜイエロー。

効いてはいる。治るのか? 気休めか?

切れ痔について少し真面目に調べたら、やばいやん、やばいやつやん。

傷口の周りが、河川堤防のように変形しちまってる。

醜い。

長引く痛み。

裂傷の深さが肛門括約筋にまで到達している恐れあり。

くそ、糞っ垂れ。

本当に糞を垂れたせいでこのざまである。

痔のせいなのか、不潔な異臭をまとう肛門周辺に軟膏を塗った指を差し、指先まで臭くなるのであった。

選挙には向かない性質

投票は権利だから―、

義務と違って、破り捨てるのも自由。

ワクチン接種券も当然破りました。

 

あっ、NHKの支払いも破り捨てていた。あれは義務か・・・。まあ、物価高が貧乏人のすべてを正当化する。俺はそう考えてる(亀田風)。

 

真面目な話、今の選挙制度が「一番良いと思う候補者に投票する」形式ではなく、古代ギリシアだかアテネだか何だかのオストラコン陶片追放)のような、「こいつだけは絶対当選させちゃ駄目、という奴に投票する」形式であれば、参加を考えなくもない。

良い人間を見極めるのは非常に難しいが、悪そうな奴・駄目そうな奴はすぐ分かる。

やりたいことは中々見つからないが、やりたくことなら沢山ある(キルア風)のと似たようなものだ。

 

「国民に選ばれた」などと言わせてはならない。「我々が選んだ」と自惚れてもいけない。そこが「民衆政治」を「民主主義」とはき違える所以、分かれ道。「どうにか今回は落とされなかった」、「今回残ったのはこいつらか」くらいの認識でいるのが丁度いい。

その程度のシステムの上に立っているからこそ、一人一人が上等でなければならない、と思えるのだ。

 

・・・思えるはずなのだけど。

もう、めんどいよ。

「生きる」ことが権利なら、ってところか。