「どうしてこんなところに、朱美さん」
「旦那と喧嘩してね、家出中」
「また? でもどうしてここに?」
「あなたがいるっていうから、ついでよ。あなたの笑顔、定期的に眺めておかないと寂しくって。まさか道端で会えるとは想像してなかったわ」
「こっちもだよ。不思議な感じ」
朱美は昨日から、駅近くのホテルに宿泊しているという。
「数日はいるつもりだから、暇潰しに付き合ってね」
「子供たちは大丈夫なの?」
「それは旦那の責任でしょ。ねえねえ、この辺りでいい男が集まるお店とかない? せっかくだもの、思いっ切り気晴らししたいわ」
「知らないよ、そんなとこ。私は早く帰った方がいいと思うけど」
「こっちのことはいいから。私はね、唯ちゃんのことも考えて提案しているのよ」
「はいはい、こっちのこともいいですから」
「何よ、そんな場合じゃないって顔ね」
「まあね」
「私には分からないわ。嫌な男と離れられたんでしょ、だったら羽根を伸ばしなさいな。私ならそうするわ、別れてなくてもそうしているけども」
「別に嫌だったわけじゃ」
「そうなの? もしかしてまだ未練があるとか」
「違うの、そういうことじゃなくて。もう、朱美さんは朱美さん、私は私だよ。そういうわけで、いい男がいるかは分からないけど、美味しいスイーツのお店なら教えてあげる」
「今はそれで手を打ちますか。唯ちゃんはさっきまで何してたの、そこの商店街でお買い物?」
「色々とね、昔を思い出してたんだ」
「いいんじゃない。思い出したい昔があるなんて素敵よ」
「思い出したいことばかりでもないから」
「それも含めたすべてが、女を魅力的にするのよ」
二人は、明日また会う約束をして別れた。
夜になり、朱美はまた街中をぶらぶら。小洒落た雰囲気でお酒が飲める店はないかしらと辺りを眺め、一軒のバーに入ってみた。
そこで一人の男性と仲良くなり、朱美は暇潰しに事欠かなかった。
◇◇◆◆◇◇
同じ日の夜、上原は二つの課題と直面していた。一つは斎藤の誘いに対する答え、もう一つは今夜のお客の一人への対応だ。
いや、実は斎藤への答えについてはもう決まっていて、決まっていないのはそれをどのタイミングで伝えるか、といった程度なのが事実。ならば実質的に課題といえるのは、お客への対応ということになる。
その客は三カ月に一度の頻度で訪れる老紳士で、頼む料理はいつも同じだった。
アンティパスト(前菜)にシーフードサラダ、プリモピアット(最初の皿)にクアトロ・フォルマッジ、セコンドピアット(メインディッシュ)に仔牛肉のコトレッタと続き、ドルチェ(デザート)のカンノーロを食した後、アマーロをストレートで飲み干す。上原がこの店で働き始めた頃から、ずっとこうだった。
注意点はシーフードサラダに帆立が欠かせないことや、クアトロ・フォルマッジで使用するチーズはパルミジャーノ・レッジャーノ、タレッジョ、ゴルゴンゾーラ、モッツァレッラであることなど。さらにこの老紳士、コトレッタは必ず右側から切って食べる。これはおそらく上原だけが気付いている食事の癖だろう。
当然、今夜も同じはずだと上原ほか斎藤料理長、多々良支配人も決めつけていた。
しかし、今夜はこの手順が違った。
本人が初めて(少なくとも上原にとっては)「メニューを変えてくれ」と注文してきたのだ。何を出すかはすべて任せたいという。
「メニューを変えてくれってことは、同じ料理は一品も出さないでくれってことだよな。それ以外はまったくのお任せ。さて、どうするか」
斎藤がナイフを器用に回し、上原にアドバイスを求める素振りをする。
「俺に聞いたって分からないよ。この調理場が頼りだ」
上原は斎藤と、その後ろのスタッフたちに目をやった。
「せめてメニューを変えたい理由でも分かれば、ヒントにでもなるが」
「根掘り葉掘り聞いてこいって?」
「無理だよな。まあ、料理ってのは旬のもの、その日にある最高の食材を生かすってのが基本。どんな状況でもどうにかするのがプロだ。それよりお前……」
「分かってる。あとでな」
そう言って調理場を出ようとする上原に真実が聞く。
「料理長と何かお約束でも?」
「まあね。期待してるから頑張ってくれよ」
「はい。アイスラテ奢ってもらった以上のものはお返しします」
執務室では、多々良支配人が天井を真剣に見つめていた。
「どうしたんです、ぼうっとしちゃって」
玲子が爪をいじり、流し目を向けた。
「唐君、君には目上の人を敬う気持ちってのがないの」
「尊敬してますよ。不器用なんです私」
「よく言うよ。僕はね、ほら、天井に染みがあるだろう? あの染みがちょっと大きくなってないかなって」
「はあ? そんなことあるはずないじゃないですか」
「そうだろうけどね、どうもそんな気が。ものの映り方というのは気の持ちようで変わるものかな」
「調子がお悪いんで?」
「まさか、ポジティブで適度に嫌味なのが僕の取り柄だよ」
「自分で断言されます、そういうこと」
「調子がいつもと違うといえば、今夜のお客様の一人かなあ。あの年で味覚が変わるとも思えんし」
「あの老紳士のことですか。同じものに飽きただけじゃありません」
「ふーむ、そういうものだろうか」
その老紳士は白髪の髭をつまみ、食前酒のスプマンテを傾けている。
フロアの様子に気を張り巡らしている上原の隣に、玲子が立った。
「はた目には、変わらない気がしますねぇ」
「どうしたの?」
「あちらの老紳士ですわ。裏でみんな噂してますよ、どうされたのかしらって。そもそもどうして、これまでいつも同じメニューを?」
「自分がここで働き始めた頃にはもうそうだったから。オーナなら、先代から色々聞いてるんじゃない」
「オーナーは未来にしか興味のない人ですから。それこそ、上原さんの方がよくご存知かと」
「どうかな、この両目は節穴かもしれない」
「あら、つまらない冗談。誰もそんな風に思ってやいませんよ。一品目、できたみたいですね。私ちょっと行ってきますわ」
玲子は颯爽と歩き、鶏レバーペーストのクロスティーニを老紳士のテーブルに置いた。
「ありがとう」
低く重い声だ。
玲子はこの声が嫌いじゃない。振動が空気を介して体に伝わり、快楽に似た揺らぎを感じる、そんな声だ。
「いつもは魚介からお召し上がりでしたが」
「がらっと変えてきたね、いや結構」
玲子の去り際、老紳士はまた「ありがとう」と伝え料理を口に運んだ。玲子は老紳士の背中から変化を読み取ろうとしてみた。年の割に真っ直ぐしっかりした背中で、それだけで品の良さと気高さが伝わってくる。食事中もその軸にぶれはない。
「上原さんもお年を召されてあのくらいになられたら、格好いいですね」
「そいつはどうも。あちらのお客様も頼むよ。ふう、そろそろピークになってきたかな」