eichi_katayama blog

確かかなと思った言葉を気ままに。あと、ヤフコメアーカイブ

BUMP OF CHICKEN『ゼロ』に勝る歌を知らない① これこそミュージックの皮を被った哲学

「迷子の足音消えた・・・」BUMP OF CHICKEN『ゼロ』の歌詞より)

 

幾度口ずさみ、風呂場では下手糞と知りながら何度叫んだことか。(だって、風呂場では上手くなった気がする)

BUMP OF CHICKENが数多くリリースしてきた楽曲の中で、『ゼロ』は自分にとってのNO1。冒頭の歌詞と違い、この選択に関しては迷うことがない。

 

CDを買い、イントロを初めて聞いた瞬間から、この曲は一生心に残るだろうな、と直感。そして歌詞を知り、虜になる。

 

「速すぎる世界で はぐれないように」(同)

 

ゼロのリリースは2011年、当時の自分は27歳。

 

振り返れば、仕事で成長を感じつつも、いまいち気が乗らない日々。自分が本当に関心を持っていることと、実生活上の要請がどんどん乖離していき、このままでは取り返しがつかなくなる、という恐れや焦りのような感情が肥大化を強め、心体のコントロールで新たな工夫が求められた時期だったかなと記憶してる。

 

速すぎる世界・・・。物事をもっとゆっくり、時間をかけて咀嚼したいと思っても、環境がそうさせてくれない。いや、そもそも環境に合わせる気がない独善的な自分がいるために、余計に首を絞める結果に陥る。

 

他人から見れば自業自得とも言える己の苦しさを、ゼロの歌詞は理解・肯定してくれてる気がして、嬉しかった。

 

東日本大震災の衝撃が色濃く残る時期でもあり、世間では「絆」「頑張ろう日本」などのスローガンが闊歩。被災者やその家族は気を悪くするかもしれないが、当時の自分は、強烈な善意のムーブメントにかなり食傷気味で、嫌悪感すら抱いていた。(今のコロナ騒ぎと通じるものがあります)

 

そこへ、ゼロのメロディーが飛び込んできたのだ。

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これはBUMP OF CHICKENの曲全体に言えることですが、一つ一つの曲に込められたメッセージは「人生を前向きに明るく生きよう」といったステレオタイプヒューマニズムとは一線を画す。

むしろ「辛いのが当たり前。その中で、それぞれの折り合いを見つける」というような諦観の部類に近い気がしている。

 

それぞれのメッセージに無茶な気負いや、脂ぎったマッチョさがないのだ。

 

他のJポップにありがちな、「生の勢い」に任せて常識を変に覆そうとせず、極めて常識的に現状を捉えながら、不意に独特のアナグラム(言葉遊び)を溶け込ませることで、常識の見方に一石を投じる・・・。

 

分かりづらい説明しかできなくてもどかしいですが、私が思うBUMP OF CHICKENの最大の武器・魅力とは、世間に流布した常識の「綻び」あるいは「陳腐さ」を敏感に察知し、それを手掛かりに一段上の思想・哲学をこしらえる点にあるのではないかと想像している。

 

そうしてこしらえた思想・哲学を巧みにメロディーと歌詞の形に置き換え、尊大な世間に一矢報いる。

 あの4人からは、一級のフィロソファーの趣を感じずにはいられない。

 

哲学に終わりはない。しかし、どんな人間もはいつかは死に、死後に残るのは言葉だけです。

『ゼロ』の冒頭、

「迷子の足音消えた 代わりに祈りの唄を」(同)

この歌詞からは、生と死の連続性が言葉のおかげで保たれている感覚を再認識させられる。

 

さらに、残された言葉の熱量・総量が大きければ大きいほど、影響は一個人にとどまらず、後世のさまざまな人々の思索に訴え続ける。

そのため、

「そこで炎になるのだろう 続く者の灯火に」(同)

となるのだ。

 見事な歌詞ではないだろうか。
 

 

「炎」を「灯火」に転換する描写は、絵が浮かぶ。

・・・一つの炎が人々を誘う。辿り着いた彼らに火が分けられ、いくつもの松明が分散していく・・・。

メロディーの雰囲気も歌詞のオーラをよく捉えている。

 

『ゼロ』について語りたいことは、ほかにも沢山あります。

1回の記事で書ききるのは、こっちの頭の整理や文章力も含めて難しそうなので、以後数回に分けて書いていこうかと計画。

とりあえず、初回の今日はこんなところで済まそうか。

 

次はサビの歌詞まで行けるかな。

 

続く