銃撃による安倍元総理大臣の死亡は、この記事のタイトルどおりの印象を自分に与えた。
安倍元総理は、確かに、評論家だった故・西部邁の薫陶を受けた一人だった。
青年期の初期、西部氏の思想によって助けられた感触のある自分にとって、西部氏の多摩川での自殺は、その後の人生の歩み方に影響をもたらしている。
10年近く務めた会社を辞めるという、ちっぽけな決断をした理由の一つに過ぎないのだが、あの自殺がなかったら、別の考えに寄ったかもしれない。
あのときは、とにかく、社会的に自分を抹殺したい衝動があったのだ。
それだけ、勝手に恩人とも思っていた西部氏。
必然的に、当時その周囲にいた人たちにも、少なからず関心はある。
安倍氏もその一人だ。
第一次安倍政権の瓦解後、西部氏はちょっとした応援を安倍氏にしていた。
西部氏自身もそのことを隠していない。
晩年には、安倍氏の政治姿勢に批判的な言論が目立ち、親の心が完全に子に伝わった訳ではないかに見えたが、そのことを納得がいかずとも、「政治家で居続けるための限界」と承知もしていたようだ。
自分は、安倍氏の殺害を「西部的思想の血脈において特に重要だったかもしれない枝線が切れた」、と言い換えて捉えている。
西部氏の薫陶を受けた方々は結構いるだろうが、あれだけ大きな存在感、影響力を放ったのは、当然ながら、元総理だけだ。
比較的名の知れた言論人でいえば、小林よしのり、水島総、中野剛志、佐藤健志、藤井聡・・・思い付くのは、このくらい。
ただ、駄目だ。彼らのことは嫌いじゃないが、残念な気分をどうしても拭えない。
ある出来事に対して、西部邁だったらそんな風には考えない、こんな感じで応える、あんな批評にはならない、といった、「お前こそ誰だよ」的な訳知り顔の気分が、彼らをみていると生じてくる。
藤井聡は公の場で頑張ってはいるが、肝心な自分の本心を見失っているようだ。
中野と佐藤は、無意識にも巨匠を意識するあまりか、口は達者だが実践に欠け、偏差値が高いニートにみえる。
水島は筋肉に力が入り過ぎではないか。脱力による打撃を覚えてほしい。
最もランクが高いのは、小林よしのり。それだけに、西部邁の知がどれほど別格だったかを、嫌になるくらい思い知る。
技術的に小林よしのりに足りないのは、流暢なスピーチ力だろうか。西部の喋りはまるで音楽だったから。
現状、西部氏の系譜にのる言論人はいるものの、同等になれた者はいない。
仕方のないことだが、それぞれが亜流・我流の道に舵を切り、それがかえって、思考のレベルアップを妨げている感じだ。
そう考えると、西部一派の「人」は残っていても、思想の内形についてはとうに終焉している。
そこへ、中身はどうあれ、行動力では随一に決まっている元総理という肩書の一人が逝ってしまったことで、外形的にも西部一派は終わった、と感じられたのだ。
自分自身、西部邁の影響を受けているなどと、思ったり、言ったり、書いたりすることに、いい加減、気恥ずかしさを覚えている。
分かっている。
西部邁が二度死んだ感覚。
「影響を受けている」ままでは駄目なのだ。
こんな意味が今回の事件にはあった。