eichi_katayama blog

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【牙狼『MAKAISENKI』を久々に観て】~ラーメン屋は味が変わると客が遠のく。けれど、牙狼はラーメンじゃない

牙狼GARO>~MAKAISENKI~』がBS日テレで再放送中。

それを思い出した先日、久々に観たのが4話「切札」。冴島鋼牙がポーカーでホラーに挑む、ちょっと異色のエピソード。

劇中の雰囲気に触れてすぐ、「ああ、昔の牙狼はこんなだったなあ」としみじみ。

 

人間を守るのが魔戒騎士の務めだ。けれど、牙狼に出てくる人間たちは、一癖も二癖もある変人や悪人の類が多い。ホラーに喰われたり、憑依されたりするのが前提の出落ちキャラたちとはいえ、非常に感情移入しづらい人間たち。

そんな人間たちでも真剣に守る魔戒騎士だから、彼らの存在は高尚な存在として自然と(視聴者に)認識される。

 

魔戒騎士の仕事は「ホラーを斬ることであって、人を裁くことじゃない」(涼邑零)。

 

だからなのか、作中でチョコチョコみられる「道徳的にそれってどうなの?」という人間たちの振る舞いは、結構スルーされたまま、牙狼は話が進んでしまう。

ホラーを斬ったら、スルーしたシーンには何も触れずに話は終わりだ。

これが何とも言えない、読後感を生む。

牙狼とは全く関係ない、片山英一の動画⇩

www.youtube.com

話が終わってなお、考えたり、思わされたりするのは、細部を説明し過ぎないストーリー構成に秘訣がある、というのは持論。

こうした手法は牙狼に限ったことではないが、牙狼では特に際立つのだ。それが、TVシリーズ第1作で盛大に展開され、第2作『MAKAISENKI』へと継承された。

 

こうした過程を観てきた生粋のファンにとっては、第1・2作の手法の牙狼こそが真の牙狼であり、それ以外のものは容易に受け入れられなくなる。

「鋼牙牙狼」以外の牙狼に、少なからずアンチがいる所以の一つではないだろうか。

 

これは、かつて好きだったラーメン屋の味が、時を経て変わってしまい、足が遠のく現象と外形上は似ている。

味の変化は言い訳のしようがない。一口食べ、違ったら違うのだ。

 

エンタテインメントの場合はどうだろう。

   

エンタテインメントの一口は、その見方や切り口によって変わってくる。しかも、観る側の置かれた人生の状況によっても、見方は変わってくるのだ。

ある人が「変わってしまった」と評するシーンやセリフでも、別の人は「変わらないものが隠れている」だなんて鼻を利かせることだってある。

だからそれが分かる人はいつまでも牙狼が好きだし、分からない人は牙狼から離れていったり、アンチになったりする。

 

エンタテインメントの作り手には、当然いいものを世に生み出す義務が(その熱意が)あるだろう。同時に観る側にも、ある種の義務が課せられると思っている。

 

自分が考える義務とは、解釈。

 

ある作品が名作と呼ばれ世に広まるためには、観衆の力が、それも上等な観客が必要だ。この場合の上等さとは、あり得る解釈を総動員し、作品の作り手すら気付いていない価値を見出すことができる、あるいは、そうしようと意識を巡らせる能力を意味する。

 

その能力を、牙狼シリーズでは本当に酷使させられたw。

最近のVR(VERSUS ROAD)でもそう。

既に懐かしい。

楽しい時間だった。

牙狼とは全く関係ない、片山英一の動画⇩

www.youtube.com

今まで牙狼シリーズをしっかり観てきたことが、VRの解釈にも生きたと思っている。世界観は違えど、共通するもの、継承されたものは確かにあった。

 

初期シリーズを観て初心を思い出すべきなのは、視聴者も同じ。

その意味で、最新作だったVRの後に旧作のMAKAISENKIを放映するのは、なかなか巧い仕掛けなように感じている。