ABEMAで放映中の旅番組「世界の果てに、東出・ひろゆき置いてきた」が面白い。
こんなことは大勢の視聴者が思っていることだろうが、なぜ面白いと感じるのか、自分なりの解釈を軽く書いてみよう。
まず目が向くのが、2ちゃんねるを創始した実業家のひろゆき氏と、俳優の東出さんの関係性。
自分にとってはこれが全てと言っても過言じゃない。
旅の舞台は南米。
訪れる土地それぞれの文化、社交、グルメ、不意に起こるトラブルが楽しいのは当然だが、それもやはり、あの二人が演者であってこそのものだろう。
ひろゆき氏は一見するとドライで、物事の考察にあまり個人の感情を盛り込まない、そこを避けようとするタイプ。
一方、東出さんは自身の目に映るさまざまなな光景、シチュエーションに感情を投影することを拒まない。
上手く二人の立ち位置が分かれ、一体でバランスが取れている。
ただ、ドライなスタンスを構えるひろゆき氏からは、それだけじゃない機微を確かに感じる。
東出さんのように直接的な表現は取らなくとも、振る舞い、言葉遣い等々から読み取れる彼の内面が、あの番組には映っている。
東出さんの多感に感化され、秘めていた情緒を自然と告白してしまっているようだ。
そのことを東出さんは恐らく感じ取っている。
ひろゆき氏はひろゆき氏で、ややもすると誤解されやすい(誤解されてきた)東出さんの人間性について、あえてエッジの効いた悪びれた見解を突き差すことで、東出さんの内面の優しさを反動的に浮かび上がらせている。
こうした関係をお互いがどこか分かっている。
分かっていながら、そこには深く触れない。
この距離感が観ていて気持ちいいのだ。
二人にしてもそうではないか。
もし違うのであれば、旅のロケ終了後も多くのメディアであれだけ二人が共演することはないだろう。
二人の化学反応の可能性について、プロデューサーの高橋弘樹さんが目を付けたのはすごい。
知ってる人は知っている。高橋さんもたいがいだ。
日本風のビジネスマンの範疇からは明らかに外れている(褒め言葉)。
高橋さんは土壌の下、地下茎で繋がっている人間の部分を見極めるのが得意なのだろう。
三人とも本質的には間違いなく日本社会のアウトロー寄りでありながら、そうでなりフリをしつつ社会にこだわり、人気番組を生み出していることに感動を覚える。
こうしたコミュニケーションはずっと観ていたい。