eichi_katayama blog

確かかなと思った言葉を気ままに。あと、ヤフコメアーカイブ

齊藤工という稀人

俳優の齊藤工さんが企画・プロデュースしたドキュメンタリー映画『大きな家』が、12月から順次公開されるようだ。

齊藤工さんは以前から注目している、結構好きな俳優の一人です。

気になったきっかけは、彼の人生観のようなものをテレビ番組で拝見した時でした。

 

「あれ以降は余生みたいなもの」

 

彼がまだそれほど売れていない(?)時期、バックパッカーとして海外を回った経験があったそうな。

その途中、確かイタリアだったか、地元の不良だがギャングみたいな連中に半ば拉致され、自分で自分の墓穴を掘らされたという。

今や有名な俳優が、そんな過去を持っていたのにまず驚いたが、話のメインはここから。

やれ、齊藤さんは自分で自分の墓穴を掘りながら、直後にやってくる死、殺人を認識していた。

しかし、いざ掘り終わっているみると、「うそピョーン」とイタリア語で言ったかどうか定かではないが、おそらくそんな調子のからかい・あざけりの文句を残して、連中は去っていったという。

 

一度は本気で死を覚悟した。けれどそうならなかった。

だから「あれ以降は余生みたいなもの」と思っているらしい。

自分だったら、悔しさと恥ずかしさで発狂しそうである。

齊藤さんはそうはならなかった。

起きた出来事、感情を率直に受け入れてリアルに達観した。

分からなくはない。

俳優を志す若者が海外旅行の最中、事故・事件に巻き込まれ絶命。

ワイドショー未満のちょっとした悲劇の小ネタ。

だからこそ、現実的に起こりうる範疇とも想像してしまう。

何者でもないまま死んでしまう自分自身に絶望し、怯え、そのどん底から救われ、安堵し、けれど、単純に助かって良かったでは済まない、済ませられない心の逡巡。

そもそも、それくらいのメンタルの重層性がなければ、俳優を目指さないし、バックパッカーもやらないのではないか。

齊藤さんにはやはり、演技・映像の世界が向いていたということだ。

 

多方面で活躍する今、当時の感覚がどれだけ残っているかは分からないが、あまり変わってもいない気がする。

児童養護施設の日常を時間をかけて記録したという『大きな家』。

作品の詳細は全く知らないが、可哀想な子どもたちに目を向けた単なる感動、感傷ものではないと予測した。

 

余生と思える経験をした本人だからこそ、生きることにこだわり、余生以前の人々のさまざまな生の形を切り取り、編集し、価値を浮き上がらせようとする。

それは、精神的には確かに一度死んだ、しかも不甲斐ない状況で死んでしまった自分に対する罰とも取れるのではないか。

誰かの生を自分以上に肯定することが、自分自身への罰となり、早々に余生に移ってしまったのちの社会への償いともなる。

 

全てが勝手な想像だ。

しかし、こんな想像を膨らませられる有名人は稀、そういない。

いずれにせよ、齊藤工が関わった作品を観る時は、彼の骨太なバックボーンを頭の片隅に置いておくスタンスを推奨する。

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