犬を連れた奥さん
一
海岸通りに新しい顔が現われたという噂であった――犬を連れた奥さんが。ドミートリイ・ドミートリチ・グーロフは、ヤールタに来てからもう二週間になり、この土地にも慣れたので、やはりそろそろ新しい顔に興味を持ちだした。ヴェルネ喫茶店に坐っていると、海岸通りを若い奥さんの通って行くのが見えた。小柄な薄色髪(ブロンド)の婦人で、ベレ帽をかぶっている。あとからスピッツ種の白い小犬が駈(か)けて行った。
それからも彼は、市立公園や辻(つじ)の広場で、日に幾度となくその人に出逢った。彼女は一人っきりで、いつ見ても同じベレをかぶり、白いスピッツ犬を連れて散歩していた。誰ひとり彼女の身許を知った人はなく、ただ簡単に『犬を連れた奥さん』と呼んでいた。
『あの女が良人(おっと)も知合いも連れずに来てるのなら』とグーロフは胸算用をするのだった、『ひとつ付き合ってみるのも悪くはないな』
彼はまだ四十の声も聞かないのに、十二になる娘が一人と、中学に通っている息子が二人あった。妻を当てがわれたのが早く、まだ彼が大学の二年の頃の話だったから、今では妻は彼より一倍半も老(ふ)けて見えた。背の高い眉毛(まゆげ)の濃い女で、一本気で、お高くとまって、がっちりして、おまけに自ら称するところによると知的な婦人だった。なかなかの読書家で、手紙も改良仮名遣いで押し通し、良人のこともドミートリイと呼ばずにヂミートリイと呼ぶといった塩梅式(あんばいしき)だった。いっぽう彼の方では、心ひそかに妻のことを、浅薄で料簡(りょうけん)の狭い野暮な奴だと思って、煙たがって家に居つかなかった。ほかに女を拵(こしら)えだしたのももう大分前からのことで、それも相当たび重なっていた。多分そのせいだったろうが、女のことになるとまず極(き)まって悪く言っていたし、自分のいる席で女の話が出ようものなら、こんなふうに評し去るのが常だった。――
「低級な人種ですよ!」
さんざ苦い経験を積まさせられたのだから、今じゃ女を何と呼ぼうといっこう差支えない気でいるのだったが、その実この『低級な人種』なしには、二日と生きて行けない始末だった。男同士の仲間だと、退屈で気づまりで、ろくろく口もきかずに冷淡に構えているが、いったん女の仲間にはいるが早いかのびのびと解放された感じで、話題の選択から仕草(しぐさ)物腰に至るまで、実に心得たものであった。いやそれのみか、相手が女なら黙っていてさえ気が楽だった。いったい彼の風貌(ふうぼう)や性格には、つまり押しなべて彼の生まれつきには、何かしら捕捉しがたい魅力があって、それが女の気を惹(ひ)いたり、女を誘い寄せたりするのだった。彼もそれは承知の上だったが、いっぽう彼の方でもやはり、何かの力に牽(ひ)かれて女の方へおびき寄せられるのであった。
いったい男女の関係というものは、初めのうちこそ生活の単調を小気味よく破ってくれもし、ほんのちょいとした微笑(ほほえ)ましいエピソードぐらいに見えるけれど、まっとうな人間――ことにそれが優柔不断な思い切りの悪いモスクヴァ人の場合だと、否(いや)が応でもだんだんに厄介千万な一大問題に変わって来て、とどのつまりは何とも身動きのならぬ状態に陥ってしまうものである。といった事情は、たび重なる経験のおかげで、それも全くもって苦い経験のおかげで、彼はとうの昔に知り抜いていた。だのにまた胸そそられる女に出くわす段になると、せっかくの経験もどうやら記憶からずり落ちてしまって、ああ生きることだと思い、この世の一切が実にたわいもない、面白可笑(おか)しいものに見えて来るのだった。
さて、ある日のこと夕暮近く、彼が公園で食事をしていると、ベレの奥さんが別に急いだ気色もなく、隣のテーブルめざして近づいて来た。その表情や歩きつきや、衣裳や髪かたちなどからして彼は、相手がちゃんとした身分の婦人で、人妻で、ヤールタには初めての滞在で、しかも独りぼっちで退屈していることを見てとった。……この土地の風儀の悪さについては色々話もあるが、とかくそれには嘘八百が多いので、彼はてんから歯牙(しが)にかけなかったばかりか、その種の話がまずたいていは、御自身その腕さえあれば悪事を働きたくってうずうずしている連中の創作にかかるものであることも承知していた。ところがいざその奥さんに、三歩とへだてぬ隣のテーブルに坐られてみると、やすやすと口説(くど)き落した手柄話や、奥山へドライヴをした話などが事新しく思い出されて、行きずりの儚(はかな)くもあわただしい関係だの、名前も苗字も、どこの何者かも知らない婦人とのロマンスだのという、誘惑的な想念がたちまち彼を俘(とりこ)にしてしまった。
彼は優しく小犬においでおいでをして、その寄って来たところを、指を立てておどかした。小犬はううと唸(うな)った。グーロフはもう一度おどかした。
奥さんはちらっと彼の方を見て、すぐまた眼を伏せた。
「咬(か)みは致しませんのよ」と彼女は言って、赧(あか)くなった。
「骨をやってもいいでしょうか?」そして彼女がうなずくのを見て、彼は愛想よく問いかけた、「ヤールタに見えてから大分におなりですか?」
「五日ほどですの」
「私はまもなく二週間というところまで、どうにかこうにか漕ぎつけましたよ」
二人はしばらく黙っていた。
「日はずんずん経(た)って行きますけれど、でもここはほんとうに退屈で!」彼女はそう、彼の方を見ずに言った。
「ここは退屈でというのは、通り文句に過ぎないんですよ。早い話が、*ベリョーフだとかジーズドラだとかいった田舎町でけっこう退屈もせずに住みついている連中までが、ここへ来たが最後『ああ退屈だ! ああ何て埃(ほこり)だ!』の百曼陀羅(ひゃくまんだら)なんですからねえ。まるで*グラナダからでもやって来たような騒ぎで」
彼女は笑いだした。それから二人は、知らない同士のように無言で食事をつづけた。が食事が済んで、肩を並べて表(おもて)へ出ると――すぐもう冗談まじりの気軽な会話が始まった。どこへ行こうと何の話をしようとどうでも結構な、閑(ひま)で何不足ない連中のやるあれである。二人はぶらぶら歩きながら、不思議な光を湛(たた)えている海のことを話し合った。水はいかにも柔かな温かそうな藤色をして、その面には月が金色の帯を一すじ流していた。二人はまた、炎暑の日の暮れたあとがひどく蒸(む)し蒸しすることも話題にした。グーロフは、自分がモスクヴァの者で、大学は文科を出たけれど現在銀行に勤めていることや、いつぞや民間のオペラで歌の練習生になったこともあるが中途でやめにしたこと、モスクヴァに家作が二軒あること……そんな話をした。いっぽう女からは、彼女がペテルブルグで生(お)い立ったこと、しかし嫁(とつ)いだ先はS市で、そこにもう二年も暮していること、ヤールタにはまだひと月ほど滞在の予定なこと、良人も息抜きをしたがっているから多分あとからやって来るだろうこと、そんな話を聞き出した。彼女は自分の良人がどこに勤めているのか――県庁なのか、それとも県会の方なのかがどうしても説明がつかず、それを自分で可笑しがっていた。グーロフはまた、彼女がアンナ・セルゲーヴナという名前だということも知った。
やがてホテルの自分の部屋に帰ってから、彼は彼女のことを考えて、明日もきっとあの女はひょっくり自分と行き逢うにちがいないと思った。そう来なければ嘘だ。寝床にはいる段になって彼はふと、あの女がついこの間まではまだ女学生で、ちょうど自分の娘が今やっているようなことを習っていたのだとあらためて思い返したり、そうかと思うとまた、彼女の笑い方や未知の男との話しぶりには、おずおずした角(かど)のとれない様子がまだ多分にあるのを思い出し、――てっきりあの女は生まれて初めてこんな環境、というのはみんなが自分をつけまわしたり、じろじろ眺めたり、言葉を交わしたりするのも元はといえば唯ひとつ、彼女もそれと感づかずにはいられないある種の思惑(おもわく)からばっかりだといった環境に、一人ぼっちで置かれたに相違あるまいとも考えた。彼はまた、女の細っそりした繊弱(かよわ)そうな頸筋(くびすじ)や、美しい灰色の眼を思い浮かべた。
『それにしても、あの女には何かこういじらしいところがあるわい』と彼はふと思って、そのまま眠りに落ちて行った。
二
知合いになって一週間たった。祭日だった。部屋のなかは蒸し暑いし、往来ではつむじ風がきりきりと砂塵(さじん)を捲(ま)いて、帽子が吹き飛ばされる始末だった。一日じゅう咽喉(のど)が渇いてならず、グーロフは幾度も喫茶店へ出掛けて行って、アンナ・セルゲーヴナにシロップ水だのアイスクリームだのをすすめた。ほとほと身の置きどころがなかった。
夕方になって、風が少し静まると、二人は船のはいるのを見に波止場へ出掛けた。船着場には人が大ぜい歩きまわっていた。誰かの出迎えに集まったものと見え、手に手に花束をさげていた。ここでもやはり際立って目につくのは、おしゃれなヤールタの群衆に見られる二つの特色だった。年配の婦人達の若作りなことと、将軍が大ぜいいることである。
海がしけたので船はおくれて、日が沈んでからやっとはいって来た。そして波止場に横着けになる前に、向きを変えるのに長いことかかった。アンナ・セルゲーヴナは柄付眼鏡(ロルネット)を当てがって、知り人を捜しでもするような様子で船や船客を眺めていたが、やがてグーロフに向かって物を言いかけたとき、その眼はきらきらと光っていた。彼女はひどくおしゃべりになって、突拍子もない質問を次から次へと浴びせかけ、現に自分で訊(き)いたことをすぐまた忘れてしまった。それから人混みのなかに眼鏡をなくした。
綺羅(きら)びやかな群衆がそろそろ散りはじめ、もう人の顔の見分けがつかなくなり、風もすっかり凪(な)いでしまったが、グーロフとアンナ・セルゲーヴナは、まだ誰か船から降りて来はしまいかと心待ち顔の人のように、その場に立ちつくしていた。アンナ・セルゲーヴナはもう黙り込んで、グーロフの方は見ずに花の匂いを嗅(か)いでいた。
「夕方から少しはましな天気になりましたね」と彼は言った。「さてこれからどこへ行きましょう? ひとつどこかへドライヴとしゃれますかな?」
彼女はなんとも答えなかった。
すると彼は、ややしばしじっと女を見つめていたが、いきなり抱きしめて唇に接吻(せっぷん)した。さっとばかり花の匂いと雫(しずく)が彼にふりそそいだ。がすぐ彼は、誰か見ていはしなかったかと、あたりをおずおず見まわした。
「あなたの所へ行きましょう。……」彼は口走るように小声でいった。
そして二人は足早に歩きだした。
彼女の部屋は蒸し蒸しして、日本人の店で彼女の買って来た香水の匂いがしていた。グーロフは今またあらためて彼女を眺めながら、一生の間には実にさまざまな女に出会うものだ! と思うのだった。これまでの生活が彼に残している思い出の女のなかには、恋のために朗らかになる性(たち)で、よしんばほんの束(つか)の間(ま)の幸福にしろ、それを与えてくれた相手に感謝を惜しまぬ、暢気(のんき)でお人好しな連中もある。かと思えばまた――例えば彼の妻のように、その愛し方たるやさっぱり実意の伴わぬ、ごてごてと御託ばかりたっぷりな、変に気どった、ヒステリックなものであるくせに、さもさもこれは色恋などといった沙汰(さた)ではない、何かもっと意味深長なことなのですよと言わんばかりの顔をする連中もある。それからまた、非常な美人で、冷やかでいながら、時としてその面上に、人生の与え得るかぎりを超えてもっとたくさん取りたい、引っつかみたいといった片意地な欲望が、そういった貪婪(どんらん)きわまる表情が、さっと閃(ひら)めく二、三の女。これはもう若盛りを過ぎた、むら気で無分別で権柄(けんぺい)がましい、いささか智慧(ちえ)の足りない連中で、グーロフは恋が冷(さ)めだすにつれて相手の美しさがかえって鼻について厭(いや)でならず、そうなるとその肌着のレース飾りまでがなんだか鱗(うろこ)みたいな気がするのだった。
ところが今度は、いつまで待っても依然として、初心(うぶ)な若さにつきものの遠慮がちな角(かく)ばった様子やぎごちのない気持が取れず、こっちから見ていると、まるで誰かに突然扉(ドア)をノックされでもしたような当惑といった感じであった。アンナ・セルゲーヴナ、つまりこの『犬を連れた奥さん』は、もちあがった事に対して何かしら特別な、ひどく深刻な、――打ち見たところまるでわが身の堕落にでも対するような態度をとっていて、それがいかにも奇態で場ちがいだった。彼女はがっかり気落ちのした凋(しお)れた顔つきになって、顔の両側には長い髪の毛が悲しげに垂れさがって、鬱々(うつうつ)とした姿勢で思い沈んでいるところは、昔の画(え)にある*罪の女にそっくりだった。
「いけませんわ」と彼女は言った。「今じゃあなたが一番わたしを尊敬して下さらない方(かた)ですわ」
部屋のテーブルのうえに西瓜(すいか)があった。グーロフは一きれ切って、ゆっくりと食べはじめた。沈黙のうちに少なくも半時間は過ぎた。
アンナ・セルゲーヴナの様子は見る眼もいじらしく、その身からは、しつけのいい純真な世慣れない女性の清らかさが息吹(いぶ)いていた。蝋燭(ろうそく)がたった一本テーブルのうえに燃えて、おぼろげに彼女の顔を照らしているだけだったが、その気持の引き立たないことは見てとれた。
「君を尊敬しなくなるなんて、そんな真似(まね)がどうして僕にできるだろう?」とグーロフは聞き返した。「君は自分が何を言ってるのか自分でも分からないのさ」
「神様、お赦(ゆる)し下さいまし!」と言った彼女の眼は、涙でいっぱいになった。「ほんとに怖(おそ)ろしいことですわ」
「まるで言いわけでもしているみたいだなあ」
「なんでわたしに言いわけなんぞができましょう? 私はわるい卑(いや)しい女ですもの。自分を蔑(さげす)みこそすれ、言いわけしようなんて考えても見ませんわ。わたしは良人をだましたのじゃなくって、この自分をだましたのです。それも今に始まったことじゃなくって、もうずっと前からのことなんです。わたしの良人は、そりゃ正直でいい人間かも知れません。けれど、あの人と来たらまったくの従僕なんですの! わたくし、あの人がお役所でどんな仕事をしているか、どんな勤めぶりをしているかは存じません。ただあの人が従僕根性なことだけは知っていますわ。わたしがあの人のところへ嫁いだのは二十(はたち)の年でした。わたしは好奇心でもって苦しいほどいっぱいで、何かましなことがしたくてなりませんでした。だって御覧、もっと別の生活があるじゃないか――って、わたしは自分に言い言いしました。面白可笑しい暮しがしたかったの! 生きて生きて生き抜きたかったの……。わたしは好奇心で胸が燃えるようでしたの……こんな気持はあなたには分かっていただけますまいけれど、本当に私はもう自分で自分の治まりがつかなくなって、頭がどうかしてしまって、なんとしても抑えようがなくなってしまったの。そこで良人には病気だと言って、ここへやって参りましたの。……ここへ来ても、まるで酔いどれみたいに、気違いみたいに、ふらふら歩きまわってばかりいて……挙句(あげく)の果てにはこの通り、誰に蔑まれても文句のない、下等なやくざ女に成りさがってしまったの」
グーロフはもう聴いているのがやりきれなかった。そのあどけない調子といい、いかにも突拍子もない場ちがいな懺悔沙汰(ざんげざた)といい、彼を苛(いら)だたせる種(たね)だった。もし彼女の眼に涙が浮かんでいなかったら、冗談かお芝居でもしていると思えただろう。
「僕には分からんなあ」と彼は小声でいった。「だからつまりどうしろって言うのさ?」
彼女は顔を彼の胸もとにかくして、ぴったりと寄り添った。
「信じて、わたしを信じて、後生ですから……」と彼女はかき口説くのだった。「わたしは正しい清らかな生活が好きなの。道にはずれたことは大きらいなの。いま自分のしていることが我ながらさっぱり分からないの。世間でよく魔がさしたって言いますわね。今のわたしがちょうどそれなんですわ、わたしも魔がさしたんですわ」
「たくさん、もうたくさん……」と彼はつぶやいた。
彼は女のじっと据わった怯(おび)えきった眼をつくづく眺め、接吻をしてやったり、小声で優しく宥(なだ)めすかしたりしているうちに、女も少しずつ落ち着いて来て、いつもの快活さを取り戻した。二人とも声を立てて笑うようになった。
やがて彼らが外へ出たとき、海岸通りには人影ひとつなく、町はその糸杉の木立ともどもひっそり死に果てたような様子だった。が海は相かわらず潮騒(しおさい)の音を立てて、岸辺に打ち寄せていた。艀舟(はしけ)が一艘(いっそう)、波間に揺れていて、その上でさも睡(ねむ)たそうに小さな灯が一つ明滅していた。
二人は辻馬車をひろって、オレアンダへ出掛けた。
「いま僕は階下(した)の控室で、君の苗字がわかっちまった。黒板にフォン=ヂーデリッツとしてあったっけ」とグーロフは言った。「君の御主人はドイツの人?」
「いいえ、あの人のたしかお祖父(じい)さんがドイツ人でしたわ。けれどあの人は正教徒ですの」
オレアンダで二人は、教会からほど遠からぬベンチに腰かけて、海を見おろしながら黙っていた。ヤールタは朝霧をとおして微(かす)かに見え、山々の頂きには白い雲がかかってじっと動かない。木々の葉はそよりともせず、朝蝉(あさぜみ)が鳴いていて、はるか下の方から聞こえてくる海の単調な鈍いざわめきが、われわれ人間の行手に待ち受けている安息、永遠の眠りを物語るのだった。はるか下のそのざわめきは、まだここにヤールタもオレアンダも無かった昔にも鳴り、今も鳴り、そしてわれわれの亡い後にも、やはり同じく無関心な鈍いざわめきを続けるのであろう。そしてこの今も昔も変わらぬ響き、われわれ誰彼の生き死には何の関心もないような響きの中に、ひょっとしたらわれわれの永遠の救いのしるし、地上の生活の絶え間ない推移のしるし、完成への不断の歩みのしるしが、ひそみ隠れているのかも知れない。明け方の光のなかでとても美しく見える若い女性と並んで腰をかけ、海や山や雲やひろびろとした大空やの、夢幻のようなたたずまいを眺めているうちに、いつか気持も安らかに恍惚(うっとり)となったグーロフは、こんなことを心に思うのだった――よくよく考えてみれば、究極のところこの世の一切はなんと美しいのだろう。人生の高尚な目的や、わが身の人間としての品位を忘れて、われわれが自分で考えたり為(し)たりすること、それを除いたほかの一切は。
誰やら男が一人歩み寄って来た。きっと見張り人なのだろう。二人の様子をちょっと眺め、そのまま向こうへ行ってしまった。そんな些細(ささい)なことまでが、いかにも神秘的な気がして、やはり美しいものに思えた。*フェオドシヤから汽船のはいってくるのが見えた。朝映(あさやけ)に照らされて、燈はもう消していた。
「草に露が下りていますのね」アンナ・セルゲーヴナが沈黙のあとでそう言った。
「ああ。そろそろ引き揚げる時刻だね」
二人は町へ帰った。
その後というもの、毎日お午(ひる)に二人は海岸通りで落ち合って、軽い昼食を一緒にとり、夕食もともにしたため、散歩をしたり、海に見とれたりするのだった。彼女はよく眠れないとか、早鐘のような動悸がしてならないとかと泣き言をならべ、ときには嫉妬(しっと)ときには恐怖のあまり興奮して、彼の尊敬してくれ方が足りないという例のおきまりの難題をもち出すのだった。そしてよく辻広場や公園で、近所に誰もいない隙をみては、彼はいきなり女を抱き寄せて熱い接吻をしてやった。まったくの有閑三昧(ゆうかんざんまい)、誰かに見つかりはしまいかと四辺(あたり)を見まわしながらびくびくものでする昼日中の接吻、炎暑、海の匂い、絶えず眼さきにちらちらしている遊惰でおしゃれな腹いっぱい満ち足りた連中、そうしたもののおかげで彼はまるでがらり別人になった観があった。彼はアンナ・セルゲーヴナに向かって、君はじつに美人だ、じつに魅惑的なひとだなどと言い言いし、燃えさかる情熱にいても立ってもおられず、彼女の傍を一歩も離れなかったが、いっぽう彼女の方はともすれば物思いに沈みがちで、あなたはわたしを尊敬してはいないのだ、ちっともわたしを愛してなんぞいないのだ、わたしをただ下等な女としか見ていないのだ、そうならそうときれいに白状なさいと、のべつにせがみ立てるのだった。ほとんど毎晩のように、少し遅目に二人はどこか町の外へ、オレアンダや滝の方へ馬車で出掛けて行ったが、そうした散歩は上乗の首尾で、印象はその都度きまって素晴らしい崇高(すうこう)なものだった。
彼らは良人が来ることとばかり思っていた。ところが彼から手紙が来て、眼が悪くなったことを報(し)らせ、後生だから妻に早く帰ってきてもらいたいと言ってよこした。アンナ・セルゲーヴナはそわそわし始めた。
「わたしが行ってしまうのはいい事だわ」と、彼女はグーロフに言うのだった。「これが運命というものなのよ」
彼女は馬車でたち、彼も一緒に送って行った。一日がかりの道のりだった。やがて彼女が急行列車の車室(はこ)に席を占めて、二度目のベルが鳴ったとき、彼女はこう言うのだった。――
「さあ、もう一度お顔をよく見せて。……もう一ぺんよく見せて。そら、こうして」
彼女は泣きこそしなかったが、まるで病人のように沈んだ様子で、顔をわななかせていた。
「あなたのことは忘れませんわ……いつまでも思い出しますわ」と彼女は言った。「ご機嫌よう、お仕合(しあわ)せでね。悪くお思いにならないでね。わたくしたち、これっきりもうお別れに致しましょうね。だってそうなんですもの、二度とお目にかかってはなりませんもの。ではご機嫌よう」
汽車はみるみる出て行き、その燈もまもなく消え失せて、一分の後にはもう音さえ聞こえなかった。それはちょうど、この甘い夢見心地、この痴(し)れごこちを、一刻も早く断ち切ってやろうと、みんなでわざわざ申し合わせたかのようだった。で、一人ぽつねんとプラットフォームに居残って、はるかの闇に見入りながら、グーロフはまるでたったいま目が覚めたような気持で、蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声や電線の唸りに耳をすましていた。そして心の中でこんなことを思うのだった――自分の生涯には現にまた一つ、波瀾(はらん)とかエピソードとかいったものがあったけれど、それもやっぱりもう済んでしまって、今では思い出が残っているのだ……。彼は感動して、もの侘(わび)しく、かるい悔恨をおぼえるのだった。思えばあの二度ともう逢う折りもない若い女性も、自分と一緒にいるあいだ幸福とは言えなかったではないか。愛想よくもしてやったし、親身にいたわってやりもしたけれど、それにしてもあの女に対するこっちの態度や、ことばの調子や、可愛がりようの中にはやっぱり、まんまと幸運を手に入れた男の、それも相手より二倍ちかくも年上の男のかるい嘲笑(あざわら)いや、がさつな思い上がりが、影のように透けて見えるのをどうしようもなかったのだ。彼女はいつも彼のことを、親切な、世の常ならぬ、高尚な人と呼んでいた。してみるとどうやら彼女の眼には、正体とは別物の彼の姿が映っていたものと見える。つまりは知らず識(し)らず彼女をだましていたことになる。……
今いる停車場はもう秋の匂いがして、ひえびえとした晩であった。
『おれもそろそろ北へ帰っていい頃だ』とグーロフは、プラットフォームを出ながら考えた。『もういい頃だ!』
三
モスクヴァのわが家はもうすっかり冬仕度(ふゆじたく)で、暖炉も焚いてあるし、毎朝子どもたちが登校の身ごしらえをしたりお茶を飲んだりしているうちはまだ暗いので、乳母(うば)がしばらくのあいだ燈をともす始末だった。もう凍(い)てが始まっていた。初雪が降って、はじめて橇(そり)に乗って行く日、白い地面や白い屋根を目にするのは楽しいもので、息もふっくらといい気持につけ、この頃になるときまって少年の日が思い出される。菩提樹(ぼだいじゅ)や白樺の老樹が霜で真っ白になった姿には、いかにも好々爺(こうこうや)然とした表情があって、糸杉や棕櫚(しゅろ)よりもずっと親しみがあり、その傍にいるともう山や海のことを想いたくもない。
グーロフは根がモスクヴァの人間だったので、その彼が上天気の凍てのぴりぴりする日にモスクヴァへ舞い戻って来て、毛皮の外套(がいとう)を着込み温かい手袋をはめてペトローフカ通りをひとわたりぶらついたり、土曜日の夕ぐれ鐘の音を耳にしたりするが早いか、最近の旅行のことも、行って見た土地土地のことも、すっかり彼には魅力がなくなってしまった。だんだん彼はモスクヴァ生活につかり込んで、今ではもう日に三種もの新聞をがつがつ読むくせに、いや私はモスクヴァの新聞は読まん主義でして、と涼しい顔をするのだった。そのうちに料理屋やクラブが恋しくなる、ごちそうや祝宴に招(よ)ばれるのが待ち遠しくなる。やがてはわが家へ有名な弁護士や役者の出入りのあることや、医師クラブで教授連を相手にカルタを闘わしたりするのが、内心すこぶる得意になる。果てはもう肉の寄せ鍋を一人前きれいに平らげられるまでになった。……
せいぜいひと月もすれば、アンナ・セルゲーヴナの面影は記憶の中で霧がかかって行って、今までの女たちと同様、いじらしい笑みを浮かべて時たまの夢に現われるだけになってしまうだろう――そんなふうに彼は高を括(くく)っていた。ところがひと月の上になって、真冬が訪れても、まるでアンナ・セルゲーヴナと別れたのはつい昨日のことのように、何もかもが記憶にはっきりしていた。そして追憶がますます強く燃えあがって行くのだった。宵(よい)の静寂のなかで子どもたちの予習の声が書斎まで聞こえて来ても、ふと小唄を耳にしても、料理屋でオルガンの鳴るのが聞こえても、または壁炉(カミン)のなかで吹雪が唸っても、たちまちもうあの波止場であったことから、山々に霧のかかっていた朝明けのことから、フェオドシヤから来た汽船のことから、接吻のことから、一切が残らず記憶によみがえって来るのだった。彼はいつまでも部屋の中を行きつ戻りつしながら、思い出をたぐったり微笑(ほほえ)んだりするのだったが、そのうち思い出はだんだん空想に変わって行き、過去が想像のなかで未来のことと混り合うようになった。アンナ・セルゲーヴナは夢には現われずに、どこへでもまるで影のように後からついて来て、彼を見まもっていた。眼をつぶると、彼女の面影がまるで現身(うつそみ)のようにまざまざと見え、しかも以前より美しく、若やいで、あでやかさを加えたような気がした。また彼自身もヤールタにいた頃より、われながら風采(ふうさい)が上がったような気がした。来る夜も来る夜も彼女は書棚の中から、壁炉(カミン)の中から、部屋の片隅から、じっと彼を見つめていて、彼にはその息づかいや、優しい衣(きぬ)ずれの音が聞こえるのだった。街へ出ると彼は女たちの姿を見送り見送り、彼女に似た女がいはしまいかと捜すのだった。……
そのうちにもう、自分の思い出話を誰かに聞かせたくてほとほと堪(たま)らなくなってしまった。しかしわが家でのろけ話もできないし、さりとて家の外にも相手がみつからない。まさか店子(たなこ)を相手にやるわけにも行かず、銀行にもこれといった相手がない。それにまた何の話すことがあるのだろう? 自分はあのとき果して恋をしていたのかしら? いったい自分がアンナ・セルゲーヴナと結んだ関係には、何かこう美しいもの、詩的なもの、またはためになるもの、あるいは単に面白いものでもいい、果してそれがあっただろうか? そこで余儀なく漠然と恋愛や女性のことを話してみるのだったが、誰ひとりとして彼の言わんと欲するところを察してくれる人はなく、ただ彼の妻がその濃い眉をもぐもぐさせながら、こう言っただけだった。――
「ヂミートリイ、あんたは二枚目なんぞの柄(がら)じゃまるでなくってよ」
ある夜ふけのこと、遊び仲間の役人と連れだって医師クラブを出ながら、彼はとうとう我慢がならなくなって口を切った。――
「実はねえ君、ヤールタで僕はうっとりするような美人と交際を結んだんですよ!」
役人は橇に乗りこみ、しばらく走らせていたが、急に振り返りざま彼の名を呼んだ。――
「ドミートリイ・ドミートリチ!」
「ええ?」
「いや先刻あんたの言われたのは本当でしたな。いかにもあのは臭みがありましたわい!」
こんな何の変哲もない言葉が、どうした加減かぐいとグーロフの癇(かん)に触って、いかにも浅ましい不潔な言い草に思われた。何という野蛮な風習、何という連中なのだろう! 何という愚かしい毎夜、何という詰らない下らない毎日だろう! 半狂乱のカルタ遊び、暴食に暴飲、だらだらと果てしのないいつも一つ題目の会話。役にも立たぬ手なぐさみや、一つ話題のくどくど話に、一日で一番いい時間と最上の精力をとられて、とどのつまり残るものといったら、何やらこう尻尾(しっぽ)も翼(はね)も失せたような生活、何やらこう痴(たわ)けきった代物(しろもの)だが、さりとて出て行きも逃げ出しもできないところは、癲狂院(てんきょういん)か監獄へぶち込まれたのにそっくりだ!
グーロフはその夜まんじりともせず向っ腹を立てていたが、おかげであくる日は一日じゅう頭痛がとれなかった。続いて来る夜も来る夜もよく眠れず、しょっちゅう寝床の上に坐り込んで考えたり、部屋を隅から隅へ行きつ戻りつして明かした。子どもたちにも厭々(あきあき)したし、銀行にもうんざりしたし、どこへも行きたくはなし、何の話もしたくなかった。
十二月の休暇になると彼は旅行を思い立って、妻にはある青年の就職の世話をしにペテルブルグへ行って来ると言い置いて、実はS市へ出掛けて行った。何をしに? 彼は自分でもよく分からなかった。とにかくアンナ・セルゲーヴナに会って話がしたい、叶うことならゆっくりどこかで会ってみたい、と思ったのである。
彼は朝のうちにS市に着いて、ホテルの一番いい部屋をとった。部屋は床(ゆか)いちめんに灰色の兵隊羅紗(らしゃ)が敷きつめてある。テーブルの上には埃で灰色になったインキ壺(つぼ)があって、片手に帽子を高く差しあげた騎馬武者の像がついているが、その首は欠け落ちていた。入口番が彼に必要な予備知識を与えてくれた。曰(いわ)く、フォン・ヂーデリッツはスタロ・ゴンチャールナヤ街の自分の持家に住んでいること、曰く、それはホテルから遠くないこと、曰く、なかなか羽振りのいいむしろ豪勢な暮しぶりで、自家用の馬車もあるし、この町で誰ひとり彼を知らない人はないこと。その入口番はドルィドィリッツと発音していた。
グーロフは別に急ぐ様子もなくスタロ・ゴンチャールナヤ街へ歩いて行って、めざす家をみつけ出した。ちょうど家の真ん前には灰色をした長い柵(さく)が連なっていて、釘が植えてある。
『こんな囲いなんか逃げ出せるさ』とグーロフは、窓と柵とをかわるがわる睨(にら)みながら、心のなかでそう考えた。
彼は色々と思いめぐらすのだった。――今日は役所が休みだから、良人はきっとうちにいるだろう。いやそれはいずれにせよ、家(うち)へあがり込んでどぎまぎさせるのは、あまり気の利いた話ではない。かと言って手紙を持たせてやれば、良人の手にはいるかも知れず、そうなったら万事休すである。最上の策は機会を待つことだ。そこで彼は気ながに通りをぶらぶらしたり柵について歩いてみたりしながら、その機会を待ち受けていた。見ていると、一人の乞食が門内へはいって行って犬に吠えつかれた。やがて一時間ほどすると、ピアノの弾奏が聞こえて、その音色が微(かす)かにおぼろげに伝わって来るのだった。きっとアンナ・セルゲーヴナが弾(ひ)いているのに違いない。表玄関の扉が突然あいて、そこからお婆さんが一人出て来たが、その後からちょこちょこついて来るのは、例のお馴染みの白いスピッツ犬だった。グーロフは犬の名を呼ぼうとしたけれど、急に動悸がしはじめて、興奮のあまり小犬の名が思い出せなかった。
なおもぶらぶらしているうちに、彼は刻一刻とその灰色の柵が憎らしくなって来た。そして今ではもう苛々(いらいら)した気持で、アンナ・セルゲーヴナは自分のことなんか忘れてしまっているのだ、もしかするともう他の男を相手に遊びまわっているかも知れない、がそれも朝から晩までこの忌々(いまいま)しい柵を眺めて暮さなければならない若い女の身にしてみれば至極無理もない話だ、などと考えるのだった。彼はホテルの部屋へ帰ると、どうしたものかと途方に暮れながら長いことソファに掛けていたが、やがて昼食をしたため、それから長いことぐっすり睡(ねむ)った。
『いやはや馬鹿げきった、ご苦労さまなことだわい』と彼は、目をさまして暗くなった窓を眺めながら思うのだった。もう日が暮れていた。『なんの心算(つもり)か知らんがえらくまあ寝ちまったものさ。さてこのよる夜中に一体どうしようと言うんだい?』
まるで病院みたいな安物の灰色毛布をかけた寝床の上に坐り込んで、彼はさも口惜しげにわれとわが身をからかうのだった。――
『そうらこれがお待ちかねの犬を連れた奥さんさ。……これがお待ちかねのエピソードさ。……まあま御緩(ごゆる)りとなさいまし』
まだその朝のことだったが、停車場で、でかでかと大きな字を並べたポスターが彼の目についた。『芸者(ゲイシャ)』という芝居の初日なのである。彼はそれを思い出したので劇場へ出掛けて行った。
『あの女が初日を観に行くというのは大いにありそうなことだからな』と考えたのである。
劇場は大入りだった。地方の劇場といえばどこもそうだが、ここでもシャンデリヤの上の辺には靄(もや)がたなびいて、聾桟敷(つんぼさじき)ががやがやと沸き立っていた。一列目には幕あき前のひと時を、土地の伊達者(だてしゃ)連中が両手をうしろへまわして立っていた。ここでも県知事のボックスにはやはりいちばん前に知事令嬢が毛皮襟巻(ボア)をして坐り、当の知事閣下は垂幕のかげにおとなしく隠れていて、見えるのはただその手だけだった。幕がゆらめいて、オーケストラが長々と調子を合わせていた。はいって来て席につく客の続いているあいだ、グーロフはずっと貪(むさぼ)るように眼でさがしていた。
アンナ・セルゲーヴナもはいって来た。彼女は三列目に腰をおろしたが、グーロフはその姿を一目みた瞬間ぎゅっと心臓がしめつけられて、現在自分にとって世界じゅうにこれほど近しい、これほど貴い、これほど大切な人はないのだということを、はっきり覚(さと)ったのだった。田舎者の群のなかに紛れ込んでいるこの小さな女、俗っぽい柄付眼鏡(ロルネット)かなんかを両手にもてあそんでさっぱり見映えのしないこの女、それが今や彼の全生活を満たし、彼の悲しみであり、悦(よろこ)びであり、彼の現在願い求める唯一つの幸福なのだ。やくざなオーケストラや、みすぼらしい田舎くさいヴァイオリンの音につれて、彼はああ何ていい女だろうと思うのだった。かつは考えかつは空想を描くのだった。
アンナ・セルゲーヴナと一緒に一人の若い男がはいって来て、並び合って席についた。それはちょっぴり頬髯(ほおひげ)を生やした、おそろしく背の高い、猫背の男だった。一あしごとに首を縦にふるので、まるでのべつにお辞儀をしているように見える。多分これが、彼女があの晩ヤールタで悲痛な感情の発作に駆られて、従僕と失礼な呼び方をした良人なのだろう。なるほどそう言えば、そのひょろ長い恰好(かっこう)や、頬髯や、ちょっぴり禿(は)げ上がった額(ひたい)ぎわなどには、一種こう従僕めいたへりくだった所があるし、おまけに甘ったるい微笑を浮かべて、ボタン孔にはちょうど従僕の番号みたいに、学位章か何かが光っていた。
初めての幕間(まくあい)に良人は煙草(たばこ)をのみに出て行って、彼女は席に居のこった。やはり平土間に席をとっていたグーロフは、彼女の傍へ歩み寄ると、無理に笑顔をつくりながら顫(ふる)える声でこう言った。――
「ご機嫌よう」
彼女は彼の顔を見るとさっとばかり蒼(あお)ざめたが、やがてもう一ぺん、わが眼が信じられないといった風に、恐る恐る彼の方をふり仰ぎ、両手のうちにぎゅっと扇を柄付眼鏡(ロルネット)もろとも握りしめた。てっきりそれは、気を失うまいと自分を相手に闘っているものらしい。二人とも無言だった。彼女は坐ったままだったし、彼は彼で、女のうろたえように度胆を抜かれて、隣へ腰をおろす決心がつかずに立っていた。調子を合わせるヴァイオリンとフルートの音がしだすと、彼はまるでそこらじゅうのボックスから見つめられているような気がして、急にそら恐ろしくなった。がそのとき彼女はつと席を立つと、足早に出口を指して行く。彼もそのあとを追って、それから二人は唯もうでたらめに、廊下から階段へ階段から廊下へと昇ったり降りたりして行った。二人の眼のまえには、法官服や教師の服や御料地事務官の服をつけた人々が、思い思いの徽章(きしょう)を胸に、絶えずちらちらしていた。婦人連の姿や、外套掛けにさがった毛皮外套も眼にちらつき、かと思うと吹き抜け風がむっと吸いさしの煙草の臭(にお)いを吹きつけたりした。そしてグーロフは、激しい動悸を抑えながら、心のなかで思うのだった。――
『やれやれ情けない! いったい何ごとだろう、この連中は、あのオーケストラは……』
するとそのとき不意に、彼はあの晩がた停車場でアンナ・セルゲーヴナを見送ってから、これで万事おしまいだ、もう二度と会うことはあるまい、と心につぶやいたことを思い出した。それが、おしまいまではまだまだ何と遠いことだろう!
『立見席御入口』と掲示の出ている狭い薄暗い階段の中途で、彼女は立ちどまった。
「ずいぶん人をびっくりさせる方(かた)ねえ!」と彼女は苦しそうに息をつきながら言った。いまだに真っ蒼(さお)な、あっけにとられたような顔だった。「ええ、ほんとに人をびっくりさせる方ですわ! わたし生きた心地もないくらい。何だって出掛けていらしたの? なぜですの?」
「でも察してください、アンナ、察して……」と彼は小声で、急(せ)きこんで言った。「後生だから察して……」
彼女は恐怖と哀願と愛情の入れまじった眼差(まなざ)しで彼を見つめた。彼の面影をなるべくしっかり記憶に刻みつけようと、まじまじと見つめるのだった。
「わたしとても苦しんでいますの!」と彼女は、相手の言葉には耳をかさずにつづけた。「わたしはしょっちゅうあなたの事ばかり考えていたの、あなたのことを考えるだけで生きていたの。そして、忘れよう忘れようと思っていたのに、あなたは何だって、何だってまた出掛けていらしったの?」
少し上の踊り場で、中学生が二人煙草を吹かしながら見おろしていたが、グーロフにはそんなことはどうでもよく、アンナ・セルゲーヴナを自分の方へ引き寄せると、その顔や頬や手に接吻しはじめた。
「何をなさるの、何をなさるの!」彼女は男を押しのけながら、おびえ切って言うのだった。「これじゃ二人とも狂気の沙汰ですわ。今日にもここを発(た)ってちょうだい、今すぐこの足で発ってちょうだい。……神かけてのお願いですわ、後生ですわ。……ああ誰か来る!」
階段の下の方から誰やらあがって来た。
「あなたはお発ちにならなきゃいけないのよ……」とアンナ・セルゲーヴナはひそひそ声でつづけた。「ね、いいこと、ドミートリイ・ドミートリチ? わたしの方からモスクヴァへお目にかかりに行きますわ。わたしは一日だって仕合せだったことはなし、現在も不仕合せだし、これから先だって決して仕合せになりっこはないの、決してないの! この上またわたしを苦しまさせないで下さいまし! 指切りですわ、わたしがモスクヴァへ行きますわ。でも今日はお別れにしましょう! ね、わたしの大事な大事なあなた、お別れにしましょう!」
彼女は彼の手を握りしめると、彼の方を見返り見返り、すばやく階段を下りて行った。その彼女の眼を見ると、彼女が実さい仕合せでないことが分かるのだった。グーロフはややしばしその場に佇(たたず)んで耳を澄ましていたが、やがて一切が静寂に返ると、自分の外套掛けをさがし出して劇場を後にした。
四
でアンナ・セルゲーヴナは彼に会いにモスクヴァへ来るようになった。二月(ふたつき)か三月(みつき)に一度、彼女はS市から出て来るのだったが、良人には大学の婦人科の先生に診(み)てもらいに行くのだと言いつくろっていた。もっとも良人は半信半疑の体(てい)だった。モスクヴァに着くと、彼女は『*スラヴャンスキイ・バザール』に部屋をとって、すぐさまグーロフのところへ赤帽子の使いを走らせる。そこでグーロフが彼女に会いに行くのだったが、モスクヴァじゅうで誰一人それに気づいた者はなかった。
あるとき彼はやはりそんな段どりで、冬の朝を彼女の宿めざして歩いていた(便利屋は前の晩に来たのだが彼は留守にしていた)。娘も一緒に連れだっていたが、それはちょうど途中にある学校まで送ってやろうと思ったのだった。大きなぼたん雪がさかんに降っていた。
「今朝(けさ)の温度は三度なんだが、でもやっぱり雪が降るねえ」とグーロフは娘に話すのだった。「でもね、この温かさは地面の表面だけのことで、空気の上の層じゃまるっきり気温が違うんだよ」
「じゃあねパパ、なぜ冬は雷が鳴らないの?」
それも説明してやった。彼は話しながら、こんなことを考えていた――今こうして自分は逢引(あいびき)に行くところだが、人っ子一人それを知った者はないし、たぶんいつまでたっても知れっこはあるまい。彼には生活が二つあった。一つは公然の、いやしくもそれを見たい知りたいと思う人には見せも知らせもしてある生活で、条件つきの真実と条件つきの虚偽でいっぱいな、つまり彼の知合いや友達の生活とまったく似たり寄ったりの代物だが、もう一つはすなわち内密に営まれる生活である。しかも一種奇妙な廻(めぐ)り合せ、恐らくは偶然の廻り合せによって、彼にとって大切で興味があってぜひとも必要なもの、彼があくまで誠実で自己をあざむかずにいられるもの、いわば彼の生活の核心をなしているものは、残らず人目を避けて行なわれる一方、彼が上辺(うわべ)を偽る方便、真実を隠そうがために引っかぶる仮面――例えば彼の銀行勤めだの、クラブの論争だの、例の『低級な人種』という警句だの、細君同伴の祝宴めぐりだのといったものは、残らずみんな公然なのだった。で彼は己れを以(もっ)て他人を測って、目に見えるものは信用せず、人には誰にも、あたかも夜のとばりに蔽(おお)われるように秘密のとばりに蔽われて、その人の本当の、最も興味ある生活が営まれているのだと常々考えていた。各人の私生活というものは秘密のおかげで保(も)っているのだが、恐らく一つにはそのせいもあって教養人があれほど神経質に、私行上の秘密を尊重しろと騒ぎ立てるのだろう。
娘を学校に送りつけると、グーロフは『スラヴャンスキイ・バザール』をめざして行った。彼は下で外套をぬぎ、二階へあがって、そっと扉をノックした。アンナ・セルゲーヴナは彼の好きな灰色の服をきて、長の道中と待遠しさとにぐったりして、昨日の晩から彼を待ちわびていた。彼女は蒼い顔をして、彼をじっと見たままにこりともしなかったが、彼が閾(しきい)をまたぐかまたがぬうちに、早くもその胸にひたとばかりとり縋(すが)った。まるで二年も会わずにいた人のように、彼らの接吻はながくながく続いた。
「どう、あっちの生活は?」と彼はきいた。「何か変わったことでもある?」
「ちょっと待って、いますぐ話すから。……だめだわ」
泣いているので話ができないのだった。彼から顔をそむけて、ハンカチを眼に押し当てた。
『まあ、一ときそうして泣くがいい。おれはその間にひと坐りしよう』と彼は考え、肱掛椅子(ひじかけいす)に腰をおろした。
やがて彼はベルを押して、お茶を持って来るように命じた。それから彼がお茶を飲んでいる間、彼女は窓の方へ顔をそらしたままで立っていた。……彼女が泣いたのは興奮からだった、二人の生活がこんな悲しい成行きになってしまったという哀切な意識からだった。二人はこっそりとでなければ会えず、まるで盗人のように人目を忍んでいるではないか! これでも二人の生活が破滅していないと言えるだろうか?
「さ、もうおやめ!」と彼は言った。
この二人の恋がまだそう急にはおしまいにならないことは、彼にははっきり見えていた。何時(いつ)という見当もつかないのだ。アンナ・セルゲーヴナはますますつよく彼に結ばれて来て、彼を心から崇拝していたから、その彼女に向かってこれもすべていつかは終末を告げねばならないのだなどとは、とても言えたものではなかった。だいいち彼女は本当にしないだろう。
彼は彼女のそばへ歩み寄って、その肩先に手をかけた。あやしたり、おどけて見せたりしようと思ったのだが、その時ふと彼は鏡にうつった自分の姿を見た。
彼の頭はそろそろ白くなりだしていた。そしてわれながら不思議なくらい、彼はこの二、三年のうちにひどく老(ふ)け、ひどく風采が落ちていた。いま彼が両手を置いている肩は温かくて、わなわなと顫えていた。彼はこの生命にふと同情を催した――それはまだこんなに温かく美しい、けれどやがて彼の生命と同じく色あせ凋(しぼ)みはじめるのも、恐らくそう遠いことではあるまい。どこがよくって彼女はこれほどに彼を慕ってくれるのだろう? 彼はいつも女の眼に正体とはちがった姿に映って来た。どの女も実際の彼を愛してくれたのではなくて、自分たちが想像で作りあげた男、めいめいその生涯に熱烈に探し求めていた何か別の男を愛していたのだった。そして、やがて自分の思い違いに気づいてからも、やっぱり元通りに愛してくれた。そしてどの女にせよ、彼と結ばれて幸福だった女は一人もないのだった。時の流れるままに、彼は近づきになり、契(ちぎ)りをむすび、さて別れただけの話で、恋をしたことはただの一度もなかった。ほかのものなら何から何までそろっていたけれど、ただ恋だけはなかった。
それがやっと今になって、頭が白くなりはじめた今になって彼は、ちゃんとした本当の恋をしたのである――生まれて初めての恋を。
アンナ・セルゲーヴナと彼とは、とても近しい者同士のように、親身の者同士のように、夫婦同士のように、こまやかな親友同士のように、互いに愛し合っていた。彼らには運命が手ずから二人をお互いのために予定していたもののように思えて、それを何だって彼に定まった妻があり、彼女に定まった良人があるのやら、いっこうに腑(ふ)に落ちないのだった。それはまるで一番(ひとつが)いの渡り鳥が、捕えられて別々の籠(かご)に養われているようなものだった。二人はお互いに過去の恥ずかしい所業を宥(ゆる)し合い、現在のこともすべて宥し合って、この二人の恋が彼らをともに生まれ変わらせてしまったように感じるのだった。
もとの彼は、悲しい折々には頭に浮かんで来る手当り次第の理屈でもって自分を慰めていたものだが、今の彼は理屈どころの騒ぎではなく、しみじみと深い同情を感じて、誠実でありたい、優しくありたいと願うのであった。……
「もうおやめ、いい子だから」と彼は言った。「それだけ泣いたら、もうたくさん。……今度は話をしようじゃないか、何かひと工夫してみようじゃないか」
それから二人は長いこと相談をしていた。どうしたら一体、人目を忍んだり、人に嘘をついたり、別々の町に住んだり、久しく会わずにいなければならないような境涯から、抜け出すことができるだろうかということを語り合った。どうしたらこの堪えきれぬ枷(かせ)からのがれることが出来るだろうか?
「どうしたら? どうしたら?」と彼は、頭をかかえて訊くのだった。「どうしたら?」
すると、もう少しの辛抱で解決の途がみつかる、そしてその時こそ新しい、素晴らしい生活が始まる、とそんな気がするのだった。そして二人とも、旅の終りまではまだまだはるかに遠いこと、いちばん複雑な困難な途がまだやっと始まったばかりなことを、はっきりと覚るのだった。