lulu lalala's blog

確かかなと思った言葉を気ままに。

【小説】ディナーのあと⑫ お説教ではなく、いわば、振る舞いのすゝめ

自分の存在を肯定したい、肯定してもらいたいという感覚は誰にでもある。同時に、他人を前にして自らを否定してみせる、そうした気分を持って状況に臨むのも人間交際の作法といえる。大抵の場合、この作法を身に付けていれば、とりあえず自意識の野蛮さの暴走は免れる。

この客もアルコールさえ回っていなければ、この先トラブルを大きくすることもなかったはずだ。

ただ厄介なのは、個性的であること、自立した人間であることが求められる世の中で、もう「その気」になっている、もしくは、ほどよく「諦めている」人種との交際だろう。彼らには、こちらの「よりよく生きたい」という熱量が不当な圧力として捉えられかねない。なぜなら彼らには、不満でも現状を受け入れて上手く立ち回る器量の方が、不満な現状に穴を穿とうとしてどうせ徒労に終わる熱量よりも美徳だと認識されており、「どうしてこの人は気を長く持てないのだろう」と軽蔑される、そう考えられるためだ。

以上は試験的傍論である。

さて、この客の場合、アルコールさえ回っていなければ、ぎりぎり自制を保てたはずだったが、残念ながら今はそうではない。

ちなみに、前を歩く多々良の後頭部は若干禿げかかっている。この頭をひっぱたいてやりたい。脈絡のない欲求が湧き上がってきた。ほんの軽くだ、軽ーく、それでこの場はお開きにしてやろう。お客という立場を過信し過ぎた未来予想だった。

この思惑は、かなりの暴投だったとすぐに分かる。

軽く叩いたのは確かだ。しかし偶然にも、まるで古武術のように相手の力と作用したのだろうか、多々良は結構な勢いで前につんのめった。さらに膝を崩し、テーブルの角に額をぶつけてしまう。

高級なリストランテには不釣り合いな衝撃音に、店内が緊張する。

玲子がとっさに駆け寄った。この時、玲子は問題の客をきっと睨みつけるのを忘れていない。客は動揺した。多々良への罪の意識からというより、やっちまったとの焦り、大事には至らないよなとの不安からの動揺である。

そんな場面の最中、

「あのう、早く料理を取りに来いって斎藤料理長が……あれ、雰囲気が良くないな、ねえ、どうしたのさ」

安西がスタッフの一人に状況を教えてもらう。

「接客は大変だ。己を探求するのとは別の辛さがあるよね。お察しはするけど、料理は早く運んで頂戴よ」

呑気と本気を合わせた台詞を吐き、仕事場へ戻ろうとする。すると視線の先で、今夜の調理場にとっては主役ともいえるあの老紳士が腰を上げ、騒動の元へと歩き出した。安西は脚を止め、老紳士の動きを追った。

多々良は膝をついたまま、額を押さえている。あの玲子が肩に手を乗せ心配してくれている。その手の感触が心地良くて気分も良く、もうちょっとこうしていれば苛立ちを忘れられそうだ、と多々良は思った。傷の程度は大したことなかった。問題の客は、

「ふ、ふん! とっとと会計しろい」

と引くに引けずに悪態を続けた。

「もう二度と来ねえからな、こんな店。お前らも、二度と来るんじゃねえぞ。高いくせに、味が記憶に残らない食い物ばかりだったぜ」

これには安西がむっとする。

 

……何だよ、気に入らなかったのは接客のはずだろう。とばっちりで料理を貶すな、後悔するぞ。あっ、あの人……。

「べちゅの店で飲み直す……糞っ、また噛んだぞ。料理が口に合わないから舌もおかしくなっちまったい。会計はまだか? 姉ちゃん、お前に言ってんだ。うん? 何だよじいさん、俺に何か……」

目の前には、あの老紳士。

「こんな世の中だから、不満が多いのは当然」

玲子と多々良の視線もその姿に集中した。

「それでも頑張って、身に着けている服は立派だ。なのに今のあなたは、どこのお偉いさんかは存じないが、結構な破廉恥者に肝心の身を堕としてしまっている。残念じゃありませんか。それとも、この程度の堕落であればいつでも這い上がれるとお考えか?」

「突然何だ。じい様、酔っ払って絡むなら別の奴……」

「お説教ではないのですよ。私が言いたいのは、いわば、振る舞いのすゝめ、です。そんな顔しないで、もうじき死ぬ人間の言葉を聞いてやって下さい。怒りや苛立ちに身を任せたい、またはそうした方が適切な状況も時にはあるでしょう。問題はその行為が過剰になってしまった場合の始末です。今のあなたです。

人の頭を先に、それも後ろから不意打ちして、大事ではなさそうですが怪我を負わせてしまったのだから。相手によっては即座にやり返されたり、のちに訴えられたり、別の誰かに復讐されたりしても致し方ない事態で、取るべき振る舞いはどう考えたらよいでしょうか。大袈裟かもしれませんが、こうした巷の問いに頭を巡らすのは、国家の経綸や人生の処し方を考えることにも通ずるところがある。

居直るというやり方、無作為が一般的でしょうか。無作為もね、捨てたもんじゃないんですよ。

時間を待つという忍耐は決して習得が易しくない人生の高等テクニックだ。使い方を間違えて乱用すると卑怯者の十八番になりかねませんけどもね。

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まあ、でもどうでしょう、今の場合、居直るという選択は、結局は相手次第の運任せといった具合の現場拒否でしかない。じゃあ、素直に謝ってみる、これは短絡だ。多くの人が、謝ればいいのでは、と思うでしょう。だが、ぱっとそいつができる度量があったら、はなからトラブルなど起こさんもんです、ねえ。

私が勧めたいのは、まずは自分の心に素直になって居直る、その後でやっぱり反省して引き返し、謝る。これです。激しく動く感情のバランスを保つには、行動の振幅も合わせて大きくしてみるのがこつだと思います。自分の感情や望みに行動が伴っているかどうか、これは人生の善し悪し、満足不満足を思量する際の指標でもあるでしょう。そのちょっとちゃちな応用ですよ。

相手にしても、不作法に去られた後、真面目に謝罪されるという両極端の行動に対し感情を働かせるわけで、気分が沈静化する可能性がある。当然、まったくの見込み違いに終わることだって十分あり得ますけどね。とにかく、あなたが最初から素直に謝れない以上、いったんは不機嫌さに任せた行動をとるしか選択肢はないわけだから、その後、どうにかそいつを修正してやるしかないのです。

国内の政治や国際関係でもそう、決めつけて居直って、それでやっぱり間違っていたらまずは反省しなさい。

通り過ぎるな、眼をそらすな、話を変えるな、不誠実ですよ。あなたはこの国同様、不義をしでかしましが、誠実さは完全に失っちゃいないでしょう。だったら、やれることは分かるでしょう。国家に手本を示しなさいな」

流暢な長台詞に、他の全員の動きが止まっていた。

叱責された客は喉に力が入り、言い返す準備はするが、返す言葉が「うるせえ」「馬鹿」「知らねえ」くらいしか浮かんでこない。それなりの企業に勤めるそれなりの役職にある身として、屈辱的な事態である。

……野に放たれた俺の力はこうも脆弱なのか、居直るしかない、と本当に思ってしまう。

そうしてどうにか、態度を決めようとした瞬間だった。

「お前らっ、いい加減にしろよっ!」

結構な、どすの効いた声だった。

「いつまでお客を待たせるんだ、料理が冷めちまうだろ、この冷製パスタを除いてはなっ!」

 

続く

【小説】ディナーのあと⑪ このリストランテ・ヴェッキオ、もう万事滞りなく

玲子は、アルコールで紅潮した老紳士の頬よりずっと恥ずかしい気分になり、笑顔を繕ってテーブルを離れた。

……まったく、あの人が私に飽きる、興味を失くしたとしたら理解できる気がするじゃない。私もガキね、馬鹿だわ、嫌になっちゃう。

玲子はいったん店の裏に戻ろうとした。

そこへ、客の一人が、

「おい君、こちらのテーブルも頼むよ、ワインを入れてもらいたいなあ」大きめの声をかけてきた。不満そうな態度をぶつけて続ける。

「そうそう、もっとだ、なみなみ入れてくれ。ここの副支配人といい君といい、あちらのご老人には随分サービスが手厚い具合だったなあ。見たところ、頼んだコースはこちらの方が高そうだ。サービスの優劣が逆だと思うんだがね」

「そのような無礼、考えたこともございません。ご要望がありましたら、何なりとお申し付け下さい」

「指摘される前に行動で示してもらいたかったなあ、行動で」

この客は、仕事仲間と思われる数人の連れとテーブルを囲んでいた。玲子には誰も見覚えがない、初見の客だろうか。初見だからといって、待遇に差を設けたりしないのがこの店の当初からの姿勢であり、今のオーナーもその点は同じだったから、この客の言いようは玲子には率直に心外であった。

この店の者なら誰でも知っている馴染みの老客が、いつもと違うメニューを頼み、亡き妻や人生へのささやかな思い、思い出話を語ろうとする姿に、ふしだらな小娘であっても神聖さを感じ、つい平均より長くとどまってしまっただけのことだ。

「おい、もう行くのかい。飲み終わった、もう一杯だ」

ここは居酒屋ではないし、居酒屋でも店員が何度も酌をしてくれる店など今時あるものか。

玲子は持てる演技力をフルに発揮し、この場を乗り切ろうとした。こんな女でも、格調あるリストランテのスタッフの一人という責任感はあった。

だが相手は異様にしつこい。

「お姉さん、ワインもう一本開けたいのだけど、お姉さんのお薦めは?」

「ソムリエを呼んでまいります」

「いやいや、お姉さんに教えてもらいたいのー」

 

本人は自然な振る舞いのつもりだろうか、厚ぼったい素手で玲子の腕を握った。まだこの程度で玲子は動じないものの、さすがに他のテーブルがよそよそし始めた。

こんな時、頼りになるのが副支配人の上原だ、と他のスタッフはみな思っている。玲子も期待しているわけではないが、こんな場面では自然と上原が頭に浮かんだ。

しかし、今夜はどうにも勝手が違う、従業員の危険を察知しフロアに出てきたのは上原でなく、支配人の多々良だった。

多々良はするすると玲子の脇にすり寄り、

「いやあ、はやはや、いかがなさいましたか? 年がら年中、飽きることなく最上のお料理と最高のサービスのご提供が自慢の、このリストランテ・ヴェッキオ。仮に不備、不足、もしくはご提案などありましたら、何なりと、この私め、支配人であるこの私めに直接お申し付け下さい」

「何だあ、あんたは?」

「支配人です」

「ふざけやがって。そんなもの呼んだ覚えはない。俺はね、そこのお姉ちゃんに用がありゅの。くそっ、噛んじまったい。おっさんは下がってろい」

「まあ、そうおっしゃらずにお客様。ここのスタッフはみな、私が手塩にかけて育てておりまして、みな私の部下というより弟子に近い存在でして。つまり私は師匠。ですから、お客様がお困りになった時あらば、私に申し付けてもらえましたら、もう万事滞りなくサービスさせていただきます」

「誰も困ってねえよ。分かったら、おっさんは下がってろ。おい聞いてんのか、ええい、下がれったら」

しかし、多々良は引かない。玲子より一歩前に出て後ろに手を組み、笑顔で仁王立ちだ。

これには玲子も不思議がるしかない。いつもなら面倒事は上原や他の人たちに任せ、自分は隠れて煙草でも吸って気を落ち着かせているというのに。まあ、それを少しは悪いと思っているのか、スタッフへの風当たりは強くないから、この店は、他店と比べ自由な気風の度合いが高い。

この場合の自由とは「勝手気まま」ではなく、「秩序ある奔放」だ。

秩序の中心がフロアでは上原であり、厨房では斎藤、一段下がって時には玲子もささやかながら秩序を担うことだってあった。本人は否定するが、同世代のスタッフからは姉御的な存在としての信頼がある。

そんな実態だから、今の多々良はやはりおかしい。客に向かってひたすら、にたにたにたにた。心が笑ってないのはすぐに分かるが、心が笑えない状況を恥も外聞もなく避けるのが多々良の真骨頂のはず。玲子は、何だか心配になってきた。

そういえば、店の経営状況が必ずしも良くないことを心配していたっけ。普段からストレスへの耐性が鍛えられてないだけに、脳への負担が大きかったのじゃないかしら、なんて想像が浮かぶ。

なぜかまだ、上原が姿を現さないことも玲子と他のスタッフを不安にさせた。

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それでも状況は好転してきた感じだ。面倒を起こした客が、多々良に根負けしてきたようにみえる。同じテーブルの仲間たちが冷静になり、諌め出したのも影響した。

「ふん、何だこんな店、糞面白くもねえ」

客は苛立ちを隠さず立ち上がった。

「とっとと会計しろい。お前らも、とっとと腰上げろい」

多々良は、(外面上は)喜んでこの客たちを先導した。玲子は距離を置いて様子を眺める。

財布を出しながら、この客はただただ面白くなかった。そもそも、今日は当てにしていた仕事が上手くいかず、店に来る前から一人不満を抱えていたという勝手な事情がある。この店でのディナーは本来、祝勝会になるはずだったのだ。

それなのに、部下たちをただ馳走するだけの会になり、あげくに可愛いお姉ちゃんは別のじい様に付きっきりで、はなはだ嫉妬心を駆り立てられ、料理の味などもう忘れてしまった。気を取り直してまた来ようにも、こんな悪態をついた後ではそれもできないではないか、ああん、まったく面白くない。

今の時代、いや、いつの世もこの手の人間は決して特殊ではない。

個人の力が希釈され、それでも個性的であること、自立した人間であることが求められる世の中で、真面目で平凡であればあるほど、ユーモアが欠ければなお一層、無力感を否定する形で自意識が過剰になって跳ね返ってくる。

組織からはみ出してはまずいという正気(あるいは恐怖心)が、気分に任せた粗暴な行動に出るのを抑止してくれるが、いったん組織を離れると、ふとしたことを引き鉄(あるいは言い訳)に憂さ晴らしに及んでしまう。こんな人間、多くの人が自分自身も含め見たり聞いたりしているはずだ。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑩ 死者にすら嫉妬する醜い女

「最高の褒め言葉をいただいたと、シェフには伝えておきます」

「私なんぞの言葉が励みになりますかな」

「ええ、必ず」

「そうですか、それでしたら。……あちらこちらにいい加減なものが溢れている世の中で、このリストランテは本物だ。初めて妻を連れてきた時、えらく気に入ってくれましてね。以来、何度か通わせていただいた。その何回目だったかに食べたメニューが特に絶品で、あれですよ、いつもお願いしていたあのメニューです。

当時のシェフは見た目からしていかにも料理人といった具合の、少し太めの方で、お喋りもお上手でしたね。チーズとワインのジョークは今でも思い出して笑える。妻が亡くなってからも、メニューは同じのを頼み続けた。その習慣を今夜変えたのは、私の命も、もう長くないからなんですよ」

「まさか、とてもお元気でいらっしゃる」

「簡単に疲れを悟られるような、やわな人生は送っておりませんからな。実は、癌がね、進行していまして。今や三人に一人、二人に一人は患う病ですからね、私もご多分に漏れず世間の仲間入りですよ」

「私にはとてもお元気に見えます」

「ありがとう。そう言われると、これまでの生き方が大方間違いでなかったことを保証されたようで嬉しいですね。いや、本当ですよ。人の内面は顔に出る。ただ、そうなるまでにはひどく時間がかかるものだから、年を取った顔つきや風体を褒められるのは、若い頃よりも格段に価値があるように思えるんです。長生きに意味があるとすれば、一つはそんなところですか」

「一つどころか、三つも四つも意味を備えられているようです。こうして毎日フロアに出ていますと、当然、色々なお客様と知り合える機会があるわけですが、似たような方はいらっしゃっても、同じような方は一人もいらっしゃらない。人の違いはどうして、どのようにして生まれるものでしょうか」

「遺伝子が決める、そんな学説もあるようですが」

「同意されます?」

「いいえ、嫌いです。私の父は戦争帰り、それも徴兵ではなく志願兵でして、勇気があり、なかなか聡明な男でした。そんな男の息子なのですから、私も当然、勇気と知恵を兼ね備えた人間になれるはずなのに、いやはやどうして、見ての通りの出来栄えです。まったく関係ないとは申しませんが、遺伝子だけが人の在り様を左右するわけがないことを、どうにも自分自身が証明してしまっている。人の違いを分けるのは、そうですね、確実に言えるとしたら、時間と逡巡の積み重ねは当てはまるでしょうね」

 

「自分もそう思います。けれど今は、悩みを抱えて生きるのが、とかく気弱とか、神経質とか、人生を無駄にしているとか敬遠される時代でもあります」

「そう。多くの人生、どうあがいても遠回りしか道はないのに、遠回りを遠回りと思わなくて済むような、そんな麻薬みたいなノウハウとやらの売り子が蔓延している。まさに、我が胸には憤りしかない。せめて、この仔牛の髄のとろみのような思想の滑らかさが、世間にもあればよいのですが」

「それこそ時間がかかります。この味を出せるまでに」

「本当、そうですね」

食事を締め括るドルチェは、苺のセミフレッドにビスコッティを添えたもの。

玲子が、ビスコッティをくずして混ぜると美味しいと説明したら、老紳士は喜んで実践した。

「満足、満足。素敵な時間をありがとう」

「シェフに伝えたら、きっと喜ぶと思いますわ。グラス、少し足しましょうか」

「ありがとう。こうして美人にワインを入れてもらって。美食に美人が揃ったら、これ以上望む贅沢はないですよ」

「あら、私みたいのが美人だなんて。結構酔ってらっしゃるんじゃありません」

「美人を見間違えたりするものですか。かくいう亡くなった私の妻も、案外器量は良くてですね。秘かな自慢ではあったんですよ。老人にもなって自分の妻を褒めるなんてのは、みっともない性分ですかね」

「どうしてですか。素敵なことじゃないですか。奥様とは、どうして出会われたんです?」

「学生時代、彼女がいわゆる文学女子、私はちょっとやんちゃな活動をしていまして、国会に礫を投げたり……。ある冬、下宿の部屋があまりに寒かったもので、下宿仲間と『焚書坑儒だ』とかわめいて外で古本でも燃やして暖まってやろうかと本を運び出していたら、彼女がするすると近付いてきたんです。無造作に積み上げた中の一冊が欲しいと言う」

「どんな本だったんです?」

「それが、当時はシェイクスピアジュリアス・シーザーを手にしたように記憶していたんですが、あとで妻に聞いてみたら、シェイクスピアは一度手には取ったけど、もらったのは家庭料理のレシピ本だったと言うんです。一人暮らしを乗り切るために自炊がしたかったというのがその理由です。あの瞬間は、本よりもパンだったと笑っていました。けれど、シェイクスピアジュリアス・シーザーも結局、あとから自腹で買ってるんですよ。文学は拾ったり恵んでもらったりしない、などと強がっていました」

「奥様のあの気品、そうした心持ちから出てきていたんですね」

「平均寿命を考えれば女性の方が長生きするだろうに、うちは逆になってしまいました。意思の強さの違いですかね。私なんぞは学生時分から格好ばかり、自分で自分の身を焼いてしまうほどの言葉をどれだけ紡いでこれただろうか。そんな調子だから、この体はまだ生きている」

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「ご謙遜ですわ。寿命の短い長いだけで人生の本気加減が分かるなら、私そもそもこの世に生まれてません」

「あはは。あなたはやはり、美しい人だ。お付き合いされる男性は大きな責任を伴いますね」

「だと嬉しいんですけど」

玲子は、またグラスにワインを注ぎながら、オーナーのことに考えを巡らせた。

……まったく。

あの人にとってこんな女、遊びだというのは、はなから分かっている。無論こっちだってそのつもりではいる。

男遊びなんて慣れたものだ。そんな飽きた気分だった矢先、野心があり金払いもいいオーナーと出会い、冷えた感覚が燃焼したのは否定しない。相手はどうあれ、いくら遊びでも、ときめきのない遊びに入れ込むほどニヒルじゃないのだ。そんな関係も、そろそろお終いだろうか。

彼は企て事が好きで、二人だけになると色々話してくれていたが、最近はめっきり。この間の「新しいアイデア」とやらは本当に初耳であり、上原に嘘はついていない。

彼にとって、自身の思考を女にさらけ出し、それについて相手の反応なり私見なりを間近で得ることは、肉体で覚えるのとは別の充足感を引き出すマリナーレ(マリネする)やアッフミカーレ(燻製にする)なのだ。それが自分に対し行われなくなったのは食材に飽きたから、それとも、旨味の幅がもう知れたのでわざわざ面倒な調理をする必要もなくなった、ということだろうか。

男を捨てたことはあっても、捨てられたことはまだ一度もなかった。今回が記念すべき初体験になるかしら、と自虐を楽しむ素振りをつくってみせ、自分からは捨てようとしていない自分がいるのに気付く。いい男なら捨てられてもいいということか。馬鹿な、確かに悪い男ではないが。

自分は、この老紳士の妻のような女になれないことがもう分かっている。断っておくが、別に憧れていたのでもない。

頭の出来も感性も平凡な人間でも、妖艶さを身に付けられれば自尊心を保てると思い付いたのは十代の頃で、考えを変えるつもりはなかった。あの老紳士の妻は恵まれていたのだ、そう信じたい。おそらく、両親は上等な風格を持ち、生活環境も親戚連中もまあまあな水準であり、だから、自分が存在する意義を見つめ、それに納得するのに十分なバックグラウンドだったのに違いない、そうであってほしい。

もし、自分のようなつまらない生い立ちであったなら、あの夫人だって……ああ、死者にすら嫉妬する醜い女……。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑨ 本能に沿った無邪気さがまだ老体に残っている

厨房はまさに戦場だ。

「安西、チポッラロッサ(赤玉葱)」

「はい」

「同時にこっちの塩抜き」

「了解です」

「流れるように、流れるように。間、出汁は煮詰まったか?」

「もうちょっとです」

「よし。さあみんな、どれだけ忙しくても格式だけは忘れるな。おっと、それにわずかなユーモアもな」

「はい!」

混乱と集中力が入り混じったひりひりした空気感。戦場が荒々しいのは嫌ではあるが、荒々しければ荒々しいほど、一流の料理人にはかえって喜びとなった。

上原はそこから出される繊細な一皿に毎回感嘆し、羨ましさと恐れ多さを胸に抱いていた。やはり、一二三には敵わない……。毎日そう思い、料理人を諦めた選択を正当化している。

これは後ろ向きな気持ちで言っているのではなく、死なないために現状を受け入れるテクニックの一つに相当した。当然、「満足」は別のところで獲得しなければならない。人生の虚しさや至らなさは誰もが抱える生活習慣病みたいなものだろうが、向き合い方にはそれぞれの癖があり、ゆえに納得できる答えは千差万別。参考になる他人の人生はあっても、自分に当てはまってくれる部分は少ないのが現実といえる。

だから、大切なのはやはり「自分」なのだ。

自分の人生は自分で切り開く、などとマッチョな希望論を語りたいのではなく、たとえ人生を切り開けなくても、希望が薄くとも、絶望に足を取られず気丈に日々を過ごす、そんな「自分の形」はないか。

ユーモアもそのきっかけにはなるだろう。いや、どんな技術や哲学を突き詰めても、人生の憂鬱とは結局、大きな成功や権力を手にしなければ消えないものかもしれないし、そうでないかもしれない。

いずれにせよ、答えは定かでなくても、生きている以上は進まざるを得ない。

「料理長、味見お願いします!」

 

厨房をのぞいていた上原の耳に、真実の大声が飛び込んだ。その隣で安西が「うおおお!」と勢いよくナイフを動かし、真実から「うるさいです!」と注意される。上原には、どう見ても似合いのコンビだ。

「ようし、できたぞ、プリモピアット。ほらフロア、とっとと持っていけ!」

「急かさないで下さい。うーん、盛り付けと匂いは完璧ですね、さすが斎藤さん。上原さん、そこどいて」

玲子が受け取ったのはポルチーニ茸のリゾット。米に炒めた玉葱、ポルチーニ茸を合わせてブロードで炊き、チーズを入れ、ポルチーニ茸のソテーを豪快にのせた。

フロアは客が増え、静かでも賑やか。

老紳士はリゾットを一口食べ、小さくうなずいた。

その様子に玲子が安堵し、上原にもそれが伝わる。

しかし、老紳士の胸の内にはフォークを動かすたび、このリストランテにいられる時間が短くなるのを残念がる趣もあった。次はどんな料理が出てくるか、胃袋は大丈夫か、本能に沿った無邪気さがまだ老体に残っているのを知り、こっぱずかしく思える機会も今となっては珍しく、せめてゆっくり食べようとするが、生来のせっかちさが勝り、みるみる皿は綺麗になっていく。

食事とは不思議なものだ。自宅で独りで食べている時は、いわば栄養摂取といった雑さで適当にこなしているのに、こうして店に来ると内側の自分に敏感になり、味覚だけでない感覚の奥行きが増す。

料理の出来が良ければ良いほど、広がりは加速し、そんな店と出会えたことが誇らしいと記憶に刻まれる。

……連れ合いもいれば、もっとだがな。

この老紳士に唯一足りないスパイスは、それこそ今、記憶の中で生きていた。

今日は彼女の命日。

そして自分の命も、もう長くはない。

「忙しいですね。やっぱり人手不足じゃないですか、上原さん」

「俺に言われてもね。それこそオーナーに進言してもらいたい問題だ」

「仕事とプライベートをごっちゃにしてほしくないですわ。人手不足の対応は、立派なお仕事でしょう」

「毎日これだけ繁盛してればいいんだけど。近々アイデアを発表するだなんて、どうするつもりだ、あの人は」

「それは、私も本当に聞いてないですから」

上原は今夜のもう一つの課題、斎藤の誘いに対する答えが、フランチェスコオーナーの動向によって影響されはしないかと、ふと考えてみる。

あのオーナーがここへ来てからの三年間、リストランテの看板メニューはオーナー好みのリゾート風に変わり、高級志向の宣伝広告も積極的に打った。経営者として為したのはそれくらいで、あとは現場に丸投げとなったが、結果が気に入らなければ不機嫌さを隠さず、「どうにかしてくれよ」と吐くだけ吐いて終わり。

あの適当が売りの多々良支配人のことが、まともに映る従業員もいただろう。それがなんだ、責任の重さと挑戦の始まりに身震いした、とは……。

亡くなった前のオーナーとの関係は、上原より斎藤の方が深い。

だからこそ、斎藤の憤りは強く、独立の企ては致し方ない仕儀でもあった。

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そんな斎藤からの誘いに対する上原の答えはもう決まっている。これしかないと今朝決めたのだ。それでも不安がないわけでないのは、使用人根性ってやつかな……と未熟さを実感しなくもなかった。

この持って生まれた「考えがち」な気質には、恐らく死ぬまで悩まされるだろうから、不安と仲良く付き合う術こそ学ぶべきか。

上原はフロアを一回りすることにした。

テーブルのお客たちに順番で挨拶し、他愛ない冗談も交わし、先に声をかけてくる常連客もいた。

上原は年配のご婦人方にも結構人気があり、一度捕まってしまうと、離れるにはそれなりの会話の技術が要った。

最後に回ったのは老紳士のテーブルだ。

「ここまでは、いかがでしたでしょうか」

「いや、結構。特にこのオッソブーコは素晴らしい、舌で味わい、喉を通るたび、肉体が若返るようです」

「ありがとうございます。シェフも頭を悩ませていましたので」

「それはそれは、申し訳ないことをしましたかな。いつもと違うメニューをくれなどと、長い習慣を突然変えてしまった。年寄りの気紛れとでも思って下さい。でも期待通り、いやそれ以上ですよ。言ってみるもんですね」

「要望がありましたら、何なりと仰って下さい。うちのシェフは、困難が大きければ大きいほど力を発揮する人ですから」

「才能ある人間の証拠ですな。年もまだお若いし、まだまだご成長されることでしょう。楽しみなことです」

……その時は、またいらして下さい。

と上原は言えなかった。斎藤は近くこの店を出ていくのだから。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑧ カンノーロを食した後、アマーロをストレートで飲み干す

「どうしてこんなところに、朱美さん」

「旦那と喧嘩してね、家出中」

「また? でもどうしてここに?」

「あなたがいるっていうから、ついでよ。あなたの笑顔、定期的に眺めておかないと寂しくって。まさか道端で会えるとは想像してなかったわ」

「こっちもだよ。不思議な感じ」

朱美は昨日から、駅近くのホテルに宿泊しているという。

「数日はいるつもりだから、暇潰しに付き合ってね」

「子供たちは大丈夫なの?」

「それは旦那の責任でしょ。ねえねえ、この辺りでいい男が集まるお店とかない? せっかくだもの、思いっ切り気晴らししたいわ」

「知らないよ、そんなとこ。私は早く帰った方がいいと思うけど」

「こっちのことはいいから。私はね、唯ちゃんのことも考えて提案しているのよ」

「はいはい、こっちのこともいいですから」

「何よ、そんな場合じゃないって顔ね」

「まあね」

「私には分からないわ。嫌な男と離れられたんでしょ、だったら羽根を伸ばしなさいな。私ならそうするわ、別れてなくてもそうしているけども」

「別に嫌だったわけじゃ」

「そうなの? もしかしてまだ未練があるとか」

「違うの、そういうことじゃなくて。もう、朱美さんは朱美さん、私は私だよ。そういうわけで、いい男がいるかは分からないけど、美味しいスイーツのお店なら教えてあげる」

「今はそれで手を打ちますか。唯ちゃんはさっきまで何してたの、そこの商店街でお買い物?」

「色々とね、昔を思い出してたんだ」

「いいんじゃない。思い出したい昔があるなんて素敵よ」

「思い出したいことばかりでもないから」

「それも含めたすべてが、女を魅力的にするのよ」

二人は、明日また会う約束をして別れた。

夜になり、朱美はまた街中をぶらぶら。小洒落た雰囲気でお酒が飲める店はないかしらと辺りを眺め、一軒のバーに入ってみた。

そこで一人の男性と仲良くなり、朱美は暇潰しに事欠かなかった。

 

◇◇◆◆◇◇

同じ日の夜、上原は二つの課題と直面していた。一つは斎藤の誘いに対する答え、もう一つは今夜のお客の一人への対応だ。

いや、実は斎藤への答えについてはもう決まっていて、決まっていないのはそれをどのタイミングで伝えるか、といった程度なのが事実。ならば実質的に課題といえるのは、お客への対応ということになる。

その客は三カ月に一度の頻度で訪れる老紳士で、頼む料理はいつも同じだった。

アンティパスト(前菜)にシーフードサラダ、プリモピアット(最初の皿)にクアトロ・フォルマッジ、セコンドピアット(メインディッシュ)に仔牛肉のコトレッタと続き、ドルチェ(デザート)のカンノーロを食した後、アマーロをストレートで飲み干す。上原がこの店で働き始めた頃から、ずっとこうだった。

注意点はシーフードサラダに帆立が欠かせないことや、クアトロ・フォルマッジで使用するチーズはパルミジャーノ・レッジャーノ、タレッジョ、ゴルゴンゾーラモッツァレッラであることなど。さらにこの老紳士、コトレッタは必ず右側から切って食べる。これはおそらく上原だけが気付いている食事の癖だろう。

当然、今夜も同じはずだと上原ほか斎藤料理長、多々良支配人も決めつけていた。

しかし、今夜はこの手順が違った。

本人が初めて(少なくとも上原にとっては)「メニューを変えてくれ」と注文してきたのだ。何を出すかはすべて任せたいという。

「メニューを変えてくれってことは、同じ料理は一品も出さないでくれってことだよな。それ以外はまったくのお任せ。さて、どうするか」

斎藤がナイフを器用に回し、上原にアドバイスを求める素振りをする。

「俺に聞いたって分からないよ。この調理場が頼りだ」

上原は斎藤と、その後ろのスタッフたちに目をやった。

「せめてメニューを変えたい理由でも分かれば、ヒントにでもなるが」

「根掘り葉掘り聞いてこいって?」

「無理だよな。まあ、料理ってのは旬のもの、その日にある最高の食材を生かすってのが基本。どんな状況でもどうにかするのがプロだ。それよりお前……」

「分かってる。あとでな」

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Mabel AmberによるPixabayからの画像

そう言って調理場を出ようとする上原に真実が聞く。

「料理長と何かお約束でも?」

「まあね。期待してるから頑張ってくれよ」

「はい。アイスラテ奢ってもらった以上のものはお返しします」

執務室では、多々良支配人が天井を真剣に見つめていた。

「どうしたんです、ぼうっとしちゃって」

玲子が爪をいじり、流し目を向けた。

「唐君、君には目上の人を敬う気持ちってのがないの」

「尊敬してますよ。不器用なんです私」

「よく言うよ。僕はね、ほら、天井に染みがあるだろう? あの染みがちょっと大きくなってないかなって」

「はあ? そんなことあるはずないじゃないですか」

「そうだろうけどね、どうもそんな気が。ものの映り方というのは気の持ちようで変わるものかな」

「調子がお悪いんで?」

「まさか、ポジティブで適度に嫌味なのが僕の取り柄だよ」

「自分で断言されます、そういうこと」

「調子がいつもと違うといえば、今夜のお客様の一人かなあ。あの年で味覚が変わるとも思えんし」

「あの老紳士のことですか。同じものに飽きただけじゃありません」

「ふーむ、そういうものだろうか」

その老紳士は白髪の髭をつまみ、食前酒のスプマンテを傾けている。

フロアの様子に気を張り巡らしている上原の隣に、玲子が立った。

「はた目には、変わらない気がしますねぇ」

「どうしたの?」

「あちらの老紳士ですわ。裏でみんな噂してますよ、どうされたのかしらって。そもそもどうして、これまでいつも同じメニューを?」

「自分がここで働き始めた頃にはもうそうだったから。オーナなら、先代から色々聞いてるんじゃない」

「オーナーは未来にしか興味のない人ですから。それこそ、上原さんの方がよくご存知かと」

「どうかな、この両目は節穴かもしれない」

「あら、つまらない冗談。誰もそんな風に思ってやいませんよ。一品目、できたみたいですね。私ちょっと行ってきますわ」

玲子は颯爽と歩き、鶏レバーペーストのクロスティーニを老紳士のテーブルに置いた。

「ありがとう」

低く重い声だ。

 

玲子はこの声が嫌いじゃない。振動が空気を介して体に伝わり、快楽に似た揺らぎを感じる、そんな声だ。

「いつもは魚介からお召し上がりでしたが」

「がらっと変えてきたね、いや結構」

玲子の去り際、老紳士はまた「ありがとう」と伝え料理を口に運んだ。玲子は老紳士の背中から変化を読み取ろうとしてみた。年の割に真っ直ぐしっかりした背中で、それだけで品の良さと気高さが伝わってくる。食事中もその軸にぶれはない。

「上原さんもお年を召されてあのくらいになられたら、格好いいですね」

「そいつはどうも。あちらのお客様も頼むよ。ふう、そろそろピークになってきたかな」

 

続く

【小説】ディナーのあと⑦ 思春期は先の知れない将来、今は見通せてしまう将来への恐れで心が葛藤する

「駄目、泣いちゃヤダよ」

「安西、それはないよ」

上原と唯はそれぞれのやり方で真実を慰め、安西を非難した。

「すいません、もう大丈夫です……。私、副支配人の恋の昔話が聞きたいんですけど」

「ええ? 急な転換だな。その流れまだ続いてたの?」

「もちろんです。唯さんも聞きたいですよねっ」

「うーん、そうだなあ」

「何だよ、どうせならもっと興味を示してもらいたい。さあて、どれを話そうかな」

「なあに、そんなに色んなエピソードがあるの?」

「一つでないのは確かさ。あれは二番目の彼女と初めて海までドライブに行った時だ。陽が暮れてきて二人とも水着なんか持ってなかったけど、海に入って遊んで濡れたっけ。服が乾くまで夜の海で話したな」

「うわー、セクシーな思い出」

「私には私服で塩水に浸かる勇気がありません。勿体なくないですか?」

「そこはね、真実ちゃんも好きな人ができればきっと変わると思うよ」

「そうですか」

「あの子とは一年後くらいに別れちゃったんだよな。他も、どうにも長続きしなくって。どうしたもんだろ」

「副支配人は求める理想が高いんだと思います。人生を難しく考え過ぎなんですよ」

「でもさ、軽く考えたら考えたで、軽い女性と付き合って結局上手くいかないだろう」

「だから、極端なんですって。もっとまあるく、ほどほどに考えましょう」

「女性の理想自体はありきたりだと思うんだけどな。芯があって朗らか、それくらいさ」

「外見は?」

「芯があって朗らかであれば、自然と顔つきに滲み出てくるもんさ。唯なら分かるだろ、目の前にいいお手本の昔馴染みがいるんだから」

「あら、自分で言ってる」

「副支配人の結婚相手って気になりますね。落ち着いてらっしゃるから相手も同じような人、それとも明るい人の方が似合うのかな。昔馴染みとして、唯さんはどう思います?」

「そのどっちも持ってる人、かな。優ちゃん贅沢だから」

「生活は質素な方だと自負してるけど」

「それは気持ちの豊かさを大切とみているからでしょ。優ちゃんは誰よりもずっと深い、そうだな、さしづめ哲学と精神力のスーパーマンにでもなろうとしてるってとこかな。だから、お相手を選ぶのも大変」

「褒めてるのか、それ」

「褒めてない、期待しているの」

 

「ああそう。おい安西、黙ってないで何か話せば」

「お情けですね、本当は聞きたくなんかないんでしょ」

「どこまで無礼なんですか先輩。堕ちるとこまで堕ちる気もないくせに、そういう人が不用意に悪い言葉を使うと、自分に跳ね返ってきますから」

「そうですか、そうですか」

「安西君て、今いくつ?」

「二十八ですが」

「分かった、そういう時期だ」

唯が一人合点した。これには安西だけでなく、真実も不思議そうな表情を浮かべる。

「だいたいそのくらいの年になると、第二の思春期じゃないけど、心がね、悩みだすの。思春期の頃は先の知れない将来への期待と不安で悩むけど、三十が近付いてくると、今度は見通せてしまう将来への恐れから心が葛藤しちゃうんだ。ねえ、優ちゃん」

「あり得る話ではある」

「僕は別に……」

「なあるほど、先輩が壁にぶち当たってるのは、そういうことも関係してるんですね」

「言ったな、また言った。これでおあいこだ。俺の方が一手も二手も譲歩しているけどな」

「大人だな、安西」

「上原さんの三十の頃の悩みって何です? 今は満足してますか」

「まさか、全然。終わりなき五里霧中だよ、恥ずかしい。せめて霧を食べて生きられたらなあ、どれだけ楽だろうか」

「上原さんはもっと満足してもいいと思いますけどね、はたから見て。本人の不本意さは本人にしか分からないんだよなぁ」

「自分が三十手前の日々を抽象的に説明すれば、さっき唯が話した通り。もっと具体的にって? 今では貴重な肥やしになってる経験を簡単に話したくないかな。確実に言えるのは、失敗から学んだことは想像以上に有益ってことか。それが悩みや憤りを消してはくれないけど、戦い方は上手になる。おやおや、勇人がまた退屈しだしたな。知らない大人に囲まれるのも楽じゃないんだよな」

そろそろ仕事の時間だ。

唯と勇人を残し、三人が職場へ向かう。

唯は商店街の看板を見上げた。「また来よう」と胸の内で思い、上原たちとは反対方向へ歩いた。

空が少し陰ってきた。風が涼しくなってきたので丁度いい。唯の心には寂しさと温かさが同居していて、今は温かさの方が勝っている。この状態をずっと保てたら、そのためには……。

「はーあ」とため息が漏れ、それを見た勇人も「はーあ」と真似をする。唯はぱっと笑顔に切り替え、母として強くあろうとした。

「唯ちゃん」

「え?」

かなり意外だった。聞き覚えのある声の主がすぐに思い浮かび、振り返る。顔を確認し、ああやっぱり、と笑みを返した。

「どうしたのー、びっくりした、一人?」

「ふふふ、こんにちは。勇人君もこんにちは」

声をかけてきたのは唯の知り合いで神楽朱美(かぐら・あけみ)。唯が離婚前に暮らしていた街で出会ったママ友だ。

 

続く

【小説】ディナーのあと⑥ 今は小難しい哲学や国際情勢なんかより、恋の話でもしたい気分

商店街の一角にある喫茶店に移動し待っていると、上原がやってきた。

安西と真実はぺこりと頭を下げ、唯はにっこり笑う。

「こんにちは。勇人、まだ飽きてないか? 一体どうやったらこんな組み合わせになるんだい。三人は知り合いじゃないだろ」

「偶然なの。いい偶然に巡り会えて私は得しちゃった。いい偶然にどれだけ巡り会えたかが、振り返ってみて人生の善し悪しの傾きを決めるものね」

「いい偶然ねえ」

「何ですかぁ副支配人、今の目は。可愛い後輩に会えて嬉しくないですか」

「俺には、間と安西が二人でいることの方が面白いや」

「優ちゃん、お二人は別に付き合ってるわけじゃないんだって」

「だろうね。安西の好みは唐さんみたいな女性だから」

「ええ?」と、真実が安西に横目を向ける。

「唐さんって?」

「いるんだよ、うちの職場に、色っぽい悪女系が。目つきと体つきに腑抜けにされてるって、斎藤料理長が話してた」

「やめて下さいよ。セクシーだなと思っているのは確かですが、彼女の方が年下ですし僕みたいな野暮な男が手を出そうだなんて。目の保養ですよ目の保養。ちらっと眺めるだけなら自由だもんね」

「先輩キモい」

「あはは、安西君ってスケベそうだもんね、爽やかだけど。ごめんね、爽やかなスケベって意味だから。これって褒め言葉だよ。スケベといえば優ちゃんも結構なものだったもんなー。中学生の時、エッチな本を買い過ぎて警察官に注意されてたから」

「うわぁ、黒歴史ですね」

「お前、あれは違うって何度も……」

「ぶはは。上原さん、この手の話題は否定せずに受け入れないと、面白がられていつまでもネタにされますから。僕にも覚えがあります。もう小学生の頃ですよ、不可抗力で女性教師の胸を触ったことを同級生たちが未だに冷やかしやがって、合コンの時にまでその話を持ち出すんだから。あの時、いいなと思っていた女の子の口元が嘲笑に変わったのが忘れられない……。

けれどね、みなさん、人生というものは、こうした苦難や失敗を経験し乗り越えた先に上等な未来が待ってるものじゃないでしょうか。人類の歴史を辿ってみましょう。人類の歴史っていつから始まったの? 

とにかく、アウストラロピテクスの時代から僕らは相も変わらず愚かしい存在ではあるけども、一歩一歩着実に文明を進化させてきたわけで、だとしたら、人一人の生き方にだって同じことがいえるのが道理でしょう。

人間に必要なのはさ、努力を惜しまないことなんだよ。これだけが、どんな凡人や天才にも通じる真理だと僕は思うな。そりゃあ、いくら努力したって超えられないものはあるだろうさ。けれど、努力を続けなければ自分の限界にも気付けない。限界があったらあったで、他にやりようはあるはずさ。いやあミルクセーキのおかげかな、いつもより口の動きが滑らかだ」

「滑らかになり過ぎて口を滑らせないで下さい。副支配人は何を飲まれます?」

「ありがとう、ホットコーヒーでいいよ」

「優ちゃん、今頃はランチの仕事じゃないの?」

「今日の営業は夜だけ。この機を逃すと渡せないかもと思ったから、ほら持ってきた」

上原はイタリアンの簡単なマナーが紹介されている冊子を渡した。

「ありがとう。これでもう準備は完璧、あとは招待されるのを待つだけだ。ねえ、その時はうちのお母さんや叔母さんも連れてきちゃ駄目? 図々しい?」

「別に構わないよ、最初で最後の出血大サービスってやつだ」

「お二人は仲いいんですね。副支配人の昔の話もっと聞かせて下さい」

「ええ、そうだな……」

「こいつがヘビースモーカーだって話ならできるけど」

「何よそれ、私煙草なんか吸わないから」

 

「吸ってたじゃんか、高校生の時。俺はやめとけって忠告したのに、人のもの分捕って」

「あれは、ただの失恋したはらいせ。あれ以来一回も吸ってないからね」

「なるほど、今ではしっかり者のお母さんにしか見えない人にも、少女時代には意外な一面があるものなんだなあ。ならきっと、あの斎藤料理長にだって知られざる情けない面や至らない点はたくさん……。そうだ、そうだよ、やはり駄目なのは僕だけじゃない、誰にでもある普通のこと、通らざるを得ない人生の泥道に、ちいとばかり足を取られているだけなんだ。僕は真っ当な針路を進んでいる、だから、真っ当に道も開けるはずさ」

「先輩、独り言なら一人の場所で。もし悩みを打ち明け相談に乗ってもらいたいのなら、そう言わないと。一人で突っ切って周りに泥だけ飛ばさないように」

「そういうことなら、料理人としての悩みや葛藤に応えられる自信は全然ないけど、聞くだけ聞こうか?」

「まさか、滅相もない! 僕のつまらないありきたりな話で副支配人の鼓膜を揺らすなんて、胸が痛みますね。僕のことは僕自身でどうにかしますから、それが人生の醍醐味! 今はそうだなあ、仕事はもちろん、小難しい哲学や国際情勢のことなんかより、恋の話でもしたい気分ですね。ぶちまけるような恋、みなさんはそんな経験あります? はい、まずは間から」

「どうして私からなんです。嫌です、答えたくありません」

「はん! 正直に言えよ、ぶちまける恋の経験なんかないってよ。顔を見れば分かるんだからな。お前なんかどうせ、昔も今もオタクだろ。アニメや漫画の恋愛のお伽噺に現実を重ねて悶々としてきたに決まってら」

「ひどい! いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるじゃないですか! 先輩が私の何を知ってるんです! 確かに漫画は好きですが、それ以上に私は、料理が好きで美味しいものを創りたくて毎日勉強して練習して、今は尊敬できる人の下で働いて、辛いこともありますが充実しています。だから、ぶちまけてるといえば、私は毎日自分をぶちまけて生きてますよ。それに比べて先輩はどうなんです? そもそも人生に本気で体当たりできてない人が、恋愛で自分をさらけ出すことができるんですか?」

「けっ、何だよ、ぷりぷりしちゃってさ」

「怒らせたのは誰です!」

「おうおう、すっかり被害者面だな。お前こそ、先輩の俺をいつも軽く扱ってるくせに。今日だってそうだ、だけど俺はそんなことで怒ったりしなかったぞ。心に余裕がないよな、男にもてないのはそれが原因か」

真実はすぐに言い返そうとして声が詰まった。声が出る代わりに、瞳にちょっぴり涙が浮かんでくる。

 

続く